八ヶ岳山麓の拙宅の近くに中ッ原遺跡がある

歩いて10分もかからないところで、小さな公園となっている

このあたりは尖石遺跡に到るまで広範囲にわたって縄文人が生活していた

当時は、温暖期であったようでこの標高の高い寒冷地でも十分に生活が営めたようだ

やがて寒冷期を迎えると海退した関東平野へと人々は移り住むようになり、このあたりは寂れた

やや標高の低い諏訪湖周辺に弥生人の痕跡を止めるようになったのはそのためであろう

中ッ原遺跡は茅野の縄文のビーナスの一つが掘り出された場所である

そのビーナスは、三角状の仮面を被ったような理解し難い姿をしている

この奇異な土偶の姿は謎である

東北では遮光器土偶と言われるやはり奇妙な土偶が発見されている

何しろ文献の存在しない時代のため、現代人は発掘物で古代人の意図を想像するほかはない

前衛芸術から宇宙人まで様々な想像がなされたが、最近、農作物の精霊であるという説明がされるようになった

保存庫の作物を守るために精霊の人形を作りその聖霊により食料を守ってもらうというのだ

作物の聖霊であるだけにその形は、芋であったり胡桃であったり蕎麦の実であったりする

そのことだけなら、気にも止めなかったのだが、

火焔土器の見方として火焔ではなく草木の萌えではないかという新解釈を聞いていたため、

自分の頭の中で二つが結びついてしまった

縄文人と当時の農業である

昔の漠然とした歴史解釈では、つまり人類は常に文明を進化させるという近世の歴史理解では、縄文人は未開ゆえに狩猟生活と考えられていた

定住も農業もないというのである

しかし三十年ほど前、青森で三大丸山遺跡の本格発掘が始まると、驚くべき事実が次々と報告された

特に三大丸山では広大な栗林が営まれその収穫を主食としていたというのである

その期間も1000年以上である

現在、クリの栽培北限は山形あたりであるが、当時は現在より暖かく青森で十分な栗の収穫があったと考えられる

そして、この集落は突然放棄される とは言っても考古学的な突然なので、当人たちにとっては数十年のことだったのかもしれない

このことも八ケ岳山麓の定住者たちと同様の事情が察せられる

寒冷化により人々は移動したのである

しばらく時を経て縄文人たちは、弥生人たちとして発見されるようになる

大きな違いは水田が営まれるようになったことだ

縄文時代の遺跡からも米は発見されるのだが、水田の形跡は見つからない

ただ、米粒は見つかっているので おそらく陸稲のようなものではなかったという想像がされている

住み方は随分と変わった 弥生時代は水田を経営し、住居は環濠集落のような形になっている

このことを狩猟生活から定住稲作へという文明進化だと我々はなんとなく理解してはいたのだが、

どうやらこの思い込みは違っているようだ

問題は気候である

また平均温度だけではなく気候の安定性の問題もある

気候が不安定であれば、農業は多様化し小規模化する

さまざまな農作物で食料安全を担保しなければならないためだ

対して安定した気候の元では人々は集約、増量を見込み 単一作付けに走りがちだ

農業の起源にも気候との関係づけが必要だ

人類が農業を発明したのは人類の叡智が進化したと考えたがるのは近世以後の感覚だ

実際は、気候が安定して大規模農業が成立しやすくなったためというのが真相のようだ

その時代は、数千年前となる

今から五千年ほどの昔、自分の家の周りに生活を営んでいた人々があった

そのことは確かだが、その人々はどのような言葉を話し、どんな文化を持った人たちであったのだろうか

今のところ対面できるのは、三角面のビーナス像ともう少し古い縄文のビーナスだけだ

この人々の祖先はどこから日本に来たのだろうか?

 

 

大野晋氏が日本語の起源はタミル語にあるという仮説を立てている

タミル語とは、インドの先住民ドラビダ人が話している言葉である

現在、タミル語を話すドラビダ人は、スリランカにわずかに残るのみで 学術的な分析はかなり難しいようだ

氏の提唱する音韻関係にも誤りが多いという指摘があり、日本語のタミル語基底説は異端であるようだ

しかしかと言って日本語の成立について他にまとまったな定説があるわけではない

日本語は、極めて大きな範囲では、膠着語という分類になり、これにはモンゴル語、問題のタミル語、ポリネシア語、ネィティブアメリカンの言葉

朝鮮語なども含まれる

構文に明快な文法がないのが特徴で、日本語でいうテニオハで単語が羅列される言葉だ また文法に基づく品詞分類も曖昧である

膠着語を話す民族には、長らく文字が生まれなかった

おそらく、日本でいう言霊という考え方に支配されていたために、文書化という作業をタブー視していたためと考えられる

余談ではあるが戦国時代に盛んにとり交わされた武士団の約定はあまり残っていない

そうした約定は熊野誓紙にしたため血判のあと燃やして灰としそれを酒に入れて飲んだためだ

明文化された契約書が全てであるという中東や西欧の文化とは根本的に異なる

口約束こそが神聖であった

このために歴史は口碑伝承が原則、またその専門職の家系も存在した

おそらく、拙宅の周辺に住っていた縄文人もそういった文化の中で暮らしていたのであろう

精緻なビーナスを製作するほどの人々の文字が見つからないのである

結局、日本人が文書を重要視するようになるのは紀元二世紀以後

大陸に統治機構を備えた国家が誕生し魏志倭人伝として日本が記録された時代、大陸の政治文化が入り込んでくるようになってからだ

聖徳太子が登場した後 蘇我氏が滅亡し壬申の乱が起こるまで、500年ほどの間 豪族の間では大陸に倣い記録文書を様々に保持していた

その頃は、まだ一般には文字は知られていないようだ

日本書紀には蘇我氏滅亡のおりに蘇我蝦夷が帝紀を灰にしたという記録が書記にある

滅びゆく一族がなぜ重要文書を廃棄する必要があるのかよくわからない

現在に残る史書は、勝者の側によって書かれたものであるだけに、帝紀を廃にしたのは事件の勝者であったのかもしれない

また、持統天皇は、記紀を編纂するにあたって豪族からそれぞれの家系図など古い文書を召し上げて廃棄している

その上で持統天皇は、万世一系で天照大神の子孫であるという天皇家の権威を作り上げた

それまでの伝承が抹殺されたのである

実際、持統天皇は、豪族から系図や古い史書を供出させている

歴史を統一するためであったのだろう

そのような背景のもとで万葉集の編纂が始まる

しかし、この成立について確かな経緯が伝わっているわけではない

家持の父親 旅人が太宰府の下向したのは710年頃

奈良の京が建設され ようやく朝廷の屋台骨がどうやら出来上がってきた頃である

万葉に、文字以前の言葉が多く残っていると言う想像は妥当であろう

一時期、万葉集を古朝鮮語で読めば判読できるという説が流行ったことがある

これは、現在の日本の歌詞に英語が多量に混じっていると同じことで、日本語そのものが外国語の支配を受けたと言う意味にはならない

言語構造としては、朝鮮語と日本語の間に少し距離がある

例えば短歌や長歌という形式が独特で、他言語で類例を探せない

日本の短歌、長歌には押韻という習慣がないかあるいは乏しい

短歌では韻を踏む程の長さもないが、長歌にも押韻はない

対して、韓国語の詩には押韻がある

漢詩にも押韻規則が存在する

そのことだけでも日本語がそれらの言語とかなり距離のある文化の言葉だということになる

日本の形成でもう一つわからないのは、巨石信仰、あるいは磐座信仰というものである

小生の住む八ヶ岳山麓 茅野駅前近くの広場にそこそこの大きさの石が〆縄を貼って鎮座させてある

掘り返したら出てきた石を神聖なものとして祀ったわけだ

平成の時代の話である

現代日本でもそのような精神文化の中にあるということになる

この石を崇めるという文化も謎でどこに起源があるのかよくわからない

中国や朝鮮半島にはない

ポリネシアンやタミル人にはあるようなのだが、関連性や相似性を追求できるほどのものはない

ただ大野晋氏は、九州での石文化との共通点を例示されている

また日本には渡来系の神々も居る

伏見稲荷、松尾大社は歴然とした渡来系なのだが、その神社がなぜ磐座を擁しているのかも謎である

渡来系であるならば、なぜその民族の信仰と戒律を維持し続けなかったのだろうか?

あるいはその渡来系そのものが日本文化のルーツなのであろうか

 

 

少し視点は異なるが日本では血液型による性格判断が盛んだ

よその国ではそうした性格判断は流行らない

なぜなら、通常、民族と言うのは血液型が偏っているからだ

ネィティブアメリカンがO型だったりインド人がB型であったり欧米系がA型であったりで血液型にはそれぞれ主流がある

もちろん日本でもA型が主流なのだが、B,Oの比率が高い

このことは何を意味しているのだろう

おそらく日本人が比較的新しい時代の混血民族だということを物語っている

文献上確認できる移民だけでも、大和朝廷草創期に、大勢の朝鮮半島人がやってきている

外来語としての古朝鮮語が多いのはそのためなのだが、興味深いのは、そうした人々が日本人として溶融同化してしまうと言うことだ

ヨーロッパにはユダヤ人問題がある

その歴史は古くしかも現存している

キリスト教徒はキリスト教徒の習慣を守りユダヤ人はユダヤ人であり続けるためた

また、記憶に新しいところではボスニア紛争と言われるもので、同じ土地に住むイスラム教徒とキリスト教徒が反目した結果の悲劇である

ともに伝統と文化が守られたが故に起こる悲劇である

日本には、そうした潔癖さ 頑なさが無い

信仰を守り続けた隠れキリシタンの例はあるが、その存在は馴化と行っても良いスタイルで大きな対立を引き起こさなかった

また仏教者の方でも鷹揚なもので、明治期の廃仏毀釈のおりに、ラジカルな仏教運動も起こらなかった

興福寺の僧たちがこぞって春日大社の神官になってしまうと言うような柔軟性とも言える節操のなさがある

日本には原理をもとに様式や宗教を展開させるという文化が存在しない

かといって何もかも骨抜きかというとそう言うわけではない

 

 

大和朝廷は盛んに大陸の文明、文化をとり入れた

そのころの宮廷の食事風景は、大陸のものと変わらなかったであろう

食器は金属製で整然とした幾何学的な形状であったに違いないし

都も太極殿や城壁を備えたものであった

しかし、いつの頃からか、その風は衰え、日本文化は非文明的な非対称の世界に帰っていく

茶の湯はそうした日本人の先祖帰りとも考えられる

当初の茶の湯、つまり宗文化に浸った僧達の茶会は、中国渡りの天目茶碗を使うのが主流であった

それがやがて不良品であったはずの曜変天目になったり、

李朝の白磁雑器が使われたりする

しかし、やがて織部焼きのようなゴツゴツとしたものに変わっていく

茶室そのものも、足利義政が先鞭をつけたこじんまりとした数寄屋普請となり 過剰な装飾を否定し富貴を敢えて排除しようとしている

茶の湯の茶碗は、陶器でゴツゴツとしたものが定着した

現在の日本の陶芸は、非対称、自然の風雨を連想させるものを良しとしている

庭園にもその趣向が現れる

作庭が盛んに行われるようになったのは茶湯と同時期で、小堀遠州が高名であるが、その庭は、自然を庭先に再現するものだ

同時期の西欧の作庭が幾何学的な整然とした雰囲気を演出するのとは対照的だ

結局のところ日本は、文明的な世界をどこか拒絶し あえていうなら縄文的な自然に溶け込む生活様式に帰っていく

神道はひたすら自然に溶け込むことを良しとし社殿よりも森や山体を崇める

仏教も理念よりは諦観を主体としたものになる あまり闘わない

大陸の仏教は闘う 少林寺拳法がなぜ存在するのかとか 中国共産党がなぜ法輪功を忌み嫌うのかは 日本人にはわからない

 

 

日本というのはそういう意味では永遠に文明国にはなれないのかもしれない

文明とは、小さな真理を種に虚構を膨らますというようなものである

明治維新直前の日本は、人口も多くGDPも大きかった

 

 

一人当たりのGDPの推計というものがあるが明治維新前後の日本は、英仏に比べて三割ほど低いが人口をかけると日本とイギリスはGDPの上では互角であった

国力としては、それほどの大きさがあった

しかし、文明の質が違った

西欧列強は、軍事力と植民地を持ちそしてその原動力は蒸気機関と鉄という文明の利器であった

日本はその暴力的な力を目の当たりにして、自らの質を変える必要に迫られた

それが明治維新というものである

そして、その行き過ぎが軍部の暴走であった

しかし、付け焼き刃の西欧軍事と日本風の文化的発想しかなかった日本の軍部はやがて自滅の道を辿る

結局、現在でも西欧あるいは大陸の論理は軍事を含めて日本人にはわからない

よくも悪くも我々は言霊と聖霊を重んじる縄文人の末裔であるからだ

首尾一貫とした理論を貫くことはできない

対称で整然とした体系を持つこともできない

大陸人の言う原理の無い国を今なお無意識に続けており

常にそのことで批判にもさらされのだが明快な理由を述べることもない

そのためか、この不明の文明を珍重する海外人が現れるのである

 

 

縄文の人々の痕跡を眺めているとそう言うことを考えてしまう