日本人には原理が無いという

ずいぶん以前に中国からやってきた留学生に言われた言葉だ

 日本にはリーダが居ないとも言われた

自分が住む長野県諏訪湖周辺では御柱祭という大祭がある

巨木を山から引き摺り出して社の四隅に立てる

氏子全員参加の祭礼であり区ごとに総代という代表者を選ぶ

しかし、現実の里曳は誰がリーダなのかはっきりしない

と やはり日本に来ていた英語教師から言われた

日本の組織には、欧米型のリーダは居ない

外国から見れば原理もなくリーダも居ない社会だ

戦前戦後の混乱期に大きく国政に関わった白洲次郎は

「プリンシプルの無い日本」という著書を著している

白洲次郎の指摘は正しくもあるが日本の現実をよく見ていないところも感じられる

 

 

この無原理で混沌とした日本という印象は江戸末期に日本を訪れた外国人たちも同様であったので

日本という国の成り立ちはずっと変わっていないのだろう

その当時 彼らは戸惑った

天子と将軍がありどこに権力があるのかわからなかった

交渉相手がはっきりしないのである

西欧の絶対王政のもとでは貴族は間違いなく建前上は従属者であった

政権内の暗闘はともかくその時点で誰に権限があるのかは明確であった

その権限に対して交渉することが外交であったわけだ

しかし、日本ではそれが不明瞭であった

そのことは鎌倉時代にもあった

元寇の時代 「元」は日本の鎌倉に親書を送る

しかし、鎌倉幕府は内政機関であるということでこれを無視し 朝廷に回送する

外交文書を送られた朝廷も祭祀機関にすぎずこれを放置する

やがて「元」は日本に侵攻し鎌倉幕府はおっとり刀で対峙するのだが

国防戦では恩賞の原資がなく動員された侍集団の不満となり鎌倉幕府崩壊の一因となった

一方朝廷は全国の寺社を動員して「元」調伏の祈祷を行う

これが日本の外交の原点であろう

では戦争を引き起こした日本の昭和とはどういうものであったのだろう

まず、江戸期からあった尊王攘夷の残火

そして外国というものを体質的に理解できないという伝統

マスコミという瓦版とも言われた読売が起源の噂話組織の跋扈

全て今なお存在するものばかりであるが

国際的に愚かであるということでは変わってはいない

国際的に愚かということは何も外国が優れているという意味ではない

日本の外では何を考えているのかということを理解しない愚かさという意味である

 日本で生まれえないものは、絶対権力とイデオロギーそして一神教と言える

キリスト教の普及状態がそれを物語っている

日本の信者は人口の1%ほど

多くの宣教師たちの努力にかかわらず信者は少ない

このことが意味するものは人の意思が絶対性になり得るとかどうかということである

日本ではそうなりえない

日本の戦争の不気味さはヒトラーのような一身に権力を背負う人物が存在しないことである

当然、強烈なイデオロギもない

八紘一宇とか五族共和は、みんな仲良くしようという程度の綺麗事である

確かに神社を作って参拝もさせたりしたが棄教までは迫らない

日本の国際感覚の無さを体現していた

この日本の異様さについて、日本の自然災害の多さを上げた人が居た

自分も同感である

日本の自然は恵み多い しかし、その反面 災害も多い

いくら富栄ても自然の猛威の下 全てが灰塵に帰することが多々ある

そのことには、宗教も絶対権力者も決してあらがうことはできなかった

ことに歴史時代以前の日本は、火山大国と言っても良いような状態で、

あちこちで噴煙が上がりその災害は目に見える力として絶対的なものであった

歴史時代に入っても、地震、噴火、水害は絶えない

気候変動などは常のことであった

そんな中にあっては啓示宗教は、あまり力を持たない

啓示宗教とは人の信念によって成立するものであるからだ

人間の信念などは自然の強大さの前にはなんら意味を持たない

そう考えるのは日本人だけかもしれないが

だから日本人は目前の山や川そして海に向かって神社を作っては鎮まりたまえとひたすら祈ったのである

こんな島国日本に対して大陸の情勢はずいぶん異なる

もちろんポンペイのように火砕流で埋まってしまった都市もあるし、洪水なども発生した

しかし、総じてなだらかな平野と安定した気候の続く大陸では 厄災とは主に人のもたらすものであった

 例えばエジプトを育んだナイルは毎年氾濫したのだか日本の氾濫とは全く異なる

その自然のサイクルは後の太陽暦の起源となったように予測可能なものであった

対して厄災となったのは、異民族との抗争 自国の王権の権力闘争問題であった

 

 

中国史はそれを物語っている

中国は秦の時代から文書に残る王朝が入れ替わり登場した

常に脅威は北から現れ やがて王朝を樹立した

異民族王朝の交代が中国史と言っても良いほどだ

王朝が成立するとその王朝は中国において正統であるという宣言をする

皇帝の徳が天に変わって人民を統治するというのである

西欧でキリスト教が王権を担保したのと似ているが より抽象的である

統治される人民の方は、緩やかな地方自治の中にある

実際、近代以前の中国においては市城とは大きな塀に取り囲まれた都市のことである

地方にとって自衛は必要かくべからざるものであったためだ

敵は同じ国土にあったということだ

皇帝が変わっても地方の実態はあまり変わらない

皇帝というイデオロギーが中央にあり、地方は上貢しその立場を安堵される

市城が取り壊されるのは、共産党政権が樹立されてからであるが

都市の独立性は今なお 残っている

 言葉も習慣も都市ごとに違っている

中国は徳治主義と言われるが、つまり政治とは人の集まりとそうした人々の権力ということになる

共産党中国となり市城は取り壊されたが中央と地方の関係はあまり変わっていないようだ

人民解放軍は国軍ではなく党の軍隊されているが、

このことが意味するのは対外的な侵攻のためではなく、この地方を縛り付けるための軍事力であるぬあ

その軍事力の権威が薄らぐと、王朝交代が起こる

最近では清朝が明を滅した時

それと辛亥革命の折である いずれも大した戦にはなっていない

頭目同士の争いに過ぎないとも言える

そのきっかけは、気候変動と政権の極端な腐敗である

そういう意味では現在の中国共産党は、歴史的には滅亡期にある

現在の中国を現代的な共産党と考えるよりは王朝の一つであると考えた方が良いであろう

 

 

王朝となった共産党に地方は上納し地方はその権威で人々を縛り付ける

そういう構図である

気候変動が王朝交代のきっかけになるのは、中国史でも西欧史でも同じだ

北から異民族が現れその異文化が新しい王朝を打ち立てる

しかし、日本にはこの異民族の大規模な侵入が有史以前よりほとんどない

海に隔てられた日本は、ごく僅かなボートピープルが移住するのみだ

また土着の日本人も気候が悪くなっても人々は同じ土地に定住し 工夫を重ねるのみだ

そして、どれほど権力者が出てきても天変地異の元では 大した権威にはなり得なかった

なぜ古代史の覇者 天皇家が 神主の盟主になってしまったかというのは、様々な経緯もあろうが

基本的には権力者も天然自然の前には非力で 祈るぐらいしかできない ということになったのである

実際、中世の庶民にとっての僧侶とは雨でも降らせる法力がなければ、価値がないとされた

日本の異様な時代は、奈良時代前後で大陸の文明と政治を模範といるイデオロギーが政権を支配した時である

しかし公地公民というような制度は多様な日本では存続に無理があった

このために平安期に入るとこの律令制度は形骸化していく

一方、地方では、生存を賭けた努力がなされる

その結果として、日本の里山、農地、森林、漁労が出来上がった

そして彼らの社会は、天災の度にひどい被害に見舞われるが 10年もすると何事もなかったように従前の生活を繰り返す

地方の豪族も権力者というよりは、土木指導者で治水、灌漑を本業とし 災害を減らす努力を続けた

争いもあったが水争いというような直接的な利害対立であり、権力奪取というようなものではない

戦国時代でも信長が登場するまでは、収穫時期になれば、故郷に戻るというようなおおらかなもので戦は農閑期のものであった

つまり、地方がそれぞれ努力を積み重ね生存努力をするということが染み付いた民族ということになる

そして異民族の南下というような天変地異はなかった

こうした生活環境のもとでは普遍的な概念というものは成立しにくい

それぞれ自然環境が異なるためである

むしろ普遍性は害をなすことが多かった

江戸期の米本位制ある意味普遍的なものであった

しかしこの普遍性が、東北地方に過酷な生活を強いることになった

経済の根幹が米である以上 東北の藩も米を作らなければならなかった

それが藩の品格と国力となるからである

津軽、南部はこの米経済に悩まされ続けた

適地適作で土地にあったものを生産すれば良いということであればそのような苦労や災害はかなり軽減されたかと考えられる

当時 日本に流布していた普遍性は二つある

仏教の殺生戒と儒学の農本主義である

殺生戒の方は、四つ足以外は問題にしないという方便で現実と折り合いをつけた

また諏訪大祝のように鹿食免というような肉食を許すような宗教的権威も存在した

儒学の農本主義は、藩内の殖産興業には足枷となる場合も多かったが

上杉鷹山のように藩主自ら商品作物に注力すれば解決できる問題でもあった

もちろん藩主や官僚が凡庸で儒学の棒読みで何事も対処しようとするのであれば、自らの藩力を損なっていた

この点、中江藤樹のように儒学と商いは相反しないという考えを持つ思想家の居た近江は幸福であった

近江では、農本主義と商品経済が矛盾なく栄えた

つまり、日本では儒学が普遍的あるいは教条的であったのは一部の武士階級のみで、社会を重苦しく覆うものではなく、

ゆったりとした教養に過ぎなかったわけだ

対して李朝朝鮮の儒学はある意味純粋で全てを支配した

商業は卑しまれ所有権も蔑ろにされたために貨幣経済には至らなかった

国民の半分が賎民として扱われ儒学を学ぶこと自体が特権にもなった

日本と朝鮮では同じテキストを読みながら全く違った社会文化を持つに至った

原理を尊重する文化と原理のない文化の違いがその遠因であろう

その傍証として韓国ではキリスト教徒が多いという事実もある

日本と同様の背景がありそうでいて、全く異なった社会文化の中にある

 

 

欧米あるいは中韓から見れば日本には背骨がないように見える

教義や原理がないからである

かといって日本が無原則かというとそうでもない

実際、江戸末期から明治にかけてやってきた外国人の目には日本は秩序ある国と映った

その本質はなんであろう

江戸期に日本人の行動規範となったのは道理という概念である

あるいはお天道様という言葉にもなる

しかしその教義はどこにもない

 

 

このことが日本と世界を隔てていて、またその無自覚が日本での議論を混沌としたものにしてしまう