前回までの記事で、笑いものにしているというあり得ない発言をしていた奴がいたので、今回はさらに真面目にもっと深いところまで取り上げていこうと思う。
タイトルにあるように、今回のテーマは、〝信じすぎる人の心理〟に関しての話。そしてその行動に関するもの。
1.騙されやすい人の特徴
騙されやすい人の特徴として思い浮かぶのが、相手の口車に乗せられてとか、根拠なく他者を信じてしまうというのが、一般的であろうと思う。
〝口車に乗せられて〟は、今回は割愛して、〝根拠なく他者を信じてしまう〟ことに関して、考察していきたい。
根拠なく信じてしまう人の多くは、
なんの苦労もしたことがないお嬢様気質タイプとか、
学生時分や家族内とかで騙されたことがない人(信じて裏切られたことがない人も含む)か、裏切られたことはあるけどそれでも人を信じたい人か、人は他者を騙す現実を知ってるがそんなことを考えたくない・認めたくない人か、自分は騙されないと信じてる人 という感じであろうかと思う。
(ちなみにここであげたのは、勝手な推察であり、他にもタイプはいくつかあるかもしれないことは、述べておく。しかし、至ってまじめに分類したものでもある)
一つ目の〝お嬢様(男だと、王子様?)気質〟は、まさに苦労知らずというか、周りの人にずっと守られていたり、ずっと担ぎ上げられていて、社会の闇の部分を全く知らない人が、これにあたるかな?
そのため、〝人に騙される〟という事象そのものをそもそも知らない人とも言えよう。
これも危険な状況であるが、周りが本人が死ぬまでずっと守っていられるのなら、問題はないのかもしれない。
しかし、こういう状況ほど、ある日を境に突然裏切り出すという危険性もはらんでいる。
実際こういうのは昔からよくあった話であり、可能性が全くないとは言えない。
ちょっと違うかもしれないが、とある女性タレントさんをはじめ何人かが、実際に自分が信じていてずっと助けてもらっていた使用人とかベビーシッターに騙されて、宝石とかの金品を盗まれた という事件も実際に起こっていた。
昨今でも大谷翔平選手が水原一平にずっと騙されていたという事例もある。長年お世話になっていて、大谷選手自身「水原さんにはとてもお世話になっています」と言っていたぐらい、信用していたにも関わらずだ。
水原一平は、バレなかった数年間は、ずっと大谷翔平選手に対してかなり神輿を担ぐ真似をして、自分のことを信じ込まさせていたことだろう。それこそ大谷翔平選手を王子様かのように扱っていたのかもしれない。
もちろん、ここで紹介したタレントも大谷選手も、ある程度苦労はしたことがあるとは思う。しかし、お嬢様(王子様)気質が強かった可能性もある。特に騙された関連に関して。特にタレントの方は、そんなイメージが強いかもしれない。
歌手の方は苦労続きなのは聞いたことあるけど……
二つ目は、学生時分とか家族内で騙されるとかいうことがなかったというもの。
上のお嬢様気質とあまり変わらないような気もするが、細分化するとしたら、信じた人から裏切られたことがないが、そういうことが世の中にはあると理解している人でもある という感じだろうか。
そういう〝人は人を騙す〟という真実・現実をちゃんとわかって知っているか知ってないかでの違いという認識でかな。
ま、お嬢様気質でもわかってる人もいるかもしれないが、それはもうこの二つ目の方だと思う。
三つ目は、騙されたことはあるが、それでも人を信じたい というものだが、これはもう〝世の中にはそうそう悪い人ばかりではない〟と本気で思っているのだろう。
確かに信じることは大事だが、だからといって対策をしてるかしてないかで、大きく意味合いを変えてしまう気はする。
何度も騙されたことがあるがそれでも人を信じてるが、対策もちゃんとする人と対策もせず本当にただただ信じて騙されるを続ける人では、ちょっと違ってくる感じはする。
四つ目は、人は騙すことを知ってるが、考えたくない・認めたくない人。
これは現実逃避型とも言えよう。ま、例のチャンネルのあの人がこれにあたるのかもしれない。
現実はわかってるが、ここではその現実から目を逸らしたいという感じのことを本人が語っていたし。
五つ目は、自分は騙されないという、謎の自信に満ち溢れた人。
こういう人がよく騙されるらしい……
統計上そういう結果が出てるみたいなことを、警察関係者かなんかが、番組で言っていたのをみたことがある。
このタイプは、自意識過剰タイプとも言えると思う。
根拠のない自信を持っているが、それだけにころっと騙されてしまうことが多いらしい。
さて、ここまで騙される人のタイプについて、五つ考えてみた。
もちろんこれ以外にもいるかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
とりあえず、今回の考察では、わかりやすくこの五つで考えていく。
なお、もっとわかりやすく表現するなら、
一つ目は、人から騙されたこともなく、人は他者を騙すという現実を知らない人
二つ目は、騙されたことはないが、人は他者を騙すという現実を知っている人
三つ目は、騙されたことはあるがそれでも人を信じていたい人
四つ目は、現実逃避型の人であり、人を騙すことを知ってるが、考えたくない・認めたくない人
五つ目は、自意識過剰に自分は騙されないと信じてる人
これから、これかのタイプをもとに、考察を続けていく。
2.なぜ人は信じてしまうのか
タイプにもよるとは思うし、人にもよるのだろうけど、誰かを信じることで、安心感というか、心の静養?安堵感とか心の安らぎとかを感じるのかもしれない。
それは、例えば宗教的なことにも当てはまる。神様を信じ、祈ったり願ったりする事で、心の調和や安らぎとかを感じているのと同じような心理現象がそこにあるのではないかと思う。
相手のことを信じることによって、自身の心の平穏を保っているとも言えるかもしれない。
実際例の面々が自称70歳に対することで口を揃えて述べていたのが、〝まるで自分の父親が責められてるよう〟であったが、それは結局彼女たち自身の心境からくるものであって、自称70歳を信じている根拠とはなり得ないだろう。
ま、別にその気持ちを否定するつもりはない。
とにもかくにも、人は自身の安らぎを求めるがために人を信じる傾向があるのだろう。
もちろん、人を信じることで友人を作っていきたいとか、人を信じない人生なんて寂しいだけだとか、人それぞれのこだわりもあるのだろうと思う。
しかしながら、それら全てを集約すれば、そこに〝安らぎ〟というものがあるように思える。
なぜなら、人を信じて人と友人になりたいとか人と楽しく過ごしたいという気持ちは、〝安らぎ〟を求めているからこそ、出てくるものなのだから。
3.信じすぎるが故の時に見られる悪行
次に取り上げるのは、信じすぎるがゆえに、誤った行動をしがちであるという話。
簡単な事例で言うと、かつてのオウム真理教や統一教会の信者たちが言えるだろう。
この信者たちは、自身の信じるものを信じすぎるがゆえに、周りの人がどれだけ注意しても聞かないどころか、事件に発展したこともあった。
何かを信じすぎたがゆえに、信じてない人と衝突してしまうという、あまりにも愚かで悲しい事案である。
もちろん、マインドコントロールとかいうのも影響されているかもしれないが、そもそも簡単に信じる人がかかりやすい気はする。
もう少し古い話でいくと、宗教戦争も事案として考えられることだろう。
複数の宗教が、それぞれ自身の宗教を絶対と信じきった結果起こったのであろう、愚かしい戦争。そして政治的な部分もあわさった戦争でもあったかな?
この手の戦争も、自分たちの信じるもののため、自分たちの信じるものを正義と信じて、その正義のもと起こった戦争といえよう。
おそらく、宗教絡みでの小さないざこざは、今でも世界中で起こっているのかもしれない。
これに関しては、日本ではあまり見かけないだろうが、世界では起こり得ててもおかしくない。
これらの大きな事例以外にも、細々したことでも、いざこざに発展していることがあるだろう。
一番わかりやすいので言えば、誰かを好きになって(その人のことを心底信じたからこそ)親に紹介したら反対されて、親と大喧嘩した と言う事例。
これは今でもちょくちょくあるだろう。ま、昔ほど絶対ダメという親は少なくなったとは思うが。
海外じゃ、親に反対して親を殺したとか、逆に親が子供の好きな人を殺したとかいう事件も、かつてはあったし、もしかしたら今もあるのかもしれない。
何かを信じることで、周りが驚くようなことをする場合もあり、それが悪行となりかねない、危険なことでもある。
それは、対人関係を破壊しかねないことでもある。
現に上であげた宗教団体絡みで、家族との関係が壊れた事案もある。
人が人を信じるのは好きにすればいいが、そういう人を信じすぎる人は、信じない人や疑り深い人を、ある意味、いろんな考え方がある中の一つの形であるという考えが出ないことが多いようだ。
それは、結局のところ自分の考えを信じすぎて、自分の考えこそが正義だと思っているからこそ、違う考え方の人を認めようとしない。それどころか人によっては、攻撃的にすらなる。
〝認める〟とは、懐柔されることではなく、〝こういう人もいるんだな〟と思える心のゆとりみたいなのがあるということ。
それは、いわゆる差別意識やいじめと同じ部分がある。相手の違うところを、個性とかそういう人なんだと認められないからこそ、差別や大きく見ればいじめに発展するのだろう。
実際、どんな相手に対しても、平等に認められるような人が多くなれば、争いは無くなるのではないかと思う。(アンチが脳内お花畑とか言いそうだが)
つまり、相手の考え方や価値観を認めることで、「あいつは間違っている。だから攻撃する」とかいう、攻撃的な発想は出ないだろうから。
本当の意味での〝信じる〟心というのは、さまざまな価値観・考え方を認めあい、しっかりとした目で相手を見ることではないかと思う。
ただただ年齢が上というだけで、見知らぬ人を信じるのは、ある意味自己満足ではなかろうかと思う。
「年配者を無条件で敬っている自分って素敵でしょ?」みたいな感じ?
(あえてかなり偏見な感じで記載してます)
そして、誰かを信じる信じないのはその人の勝手であるのだから、自分の価値観とかを押し付けすぎるのも良くない悪行ではある。
(こないだの人たちだけでなく)そういう人結構見てきたが、本当強引である。
何かを信じるのはさほど悪いことではないが、もう少し落ち着いて、違う考え方の人に対しても、同じように信じられるようになってほしいものである。
信じられなくとも、とりあえず落ち着いてちゃんと考えてしっかりと現実を見てほしいものだけどね。
4.まとめ
最後にまとめとして、さまざまな思惑や経験とかで、色んな〝信じる〟形があるが、本当の〝信じる心〟とは、自分とは違う考え方の人のこともある程度は〝信じられる〟人ではないかと思う。
少なくとも、色んな人を認めあえるようになれば、些細な揉め事なんかもなくなると思う。
というか、少しは落ち着いてほしいものである。
5.おまけ
もののついでに、例の自称70の人絡みの話を。
これもおそらく一で述べたタイプ別みたいな感じはある。
いわゆる〝年上ってだけで・有名人で活躍してるってだけで、敬い信じる人〟。
つい今朝方もあって、ここでも紹介し、若干嫌味っぽく紹介したが、例の人たちが安直に信じていた人と同じぐらいの年齢の人みたいなこともあるし、真面目な話、年上だからとか有名人だからとかいうだけで信じすぎるのは、あまりにも安直であり、危険である。
実際一番わかりやすいのが、〝水原一平〟だろう。
一体この世界中の中の誰が、こいつがとんでもない犯罪者だとわかっただろうか?
私ですらほとんど疑ってはいなかった。
だから、当然そんな彼を尊敬し敬っていた人も多いだろう。
しかし、蓋を開けてみたらどうだ?信じて敬えるような人だろうか?
そんな、人から敬ってもらえるような存在だろうか。
水原一平だけに限らず、政治家や有名人とかでも、そんな〝実は〟な人間が、過去にどれほど多くいた?
そういった確固たる現実と証拠があるのに、簡単に無条件で人を信じる方が、ある意味危険すぎる行為である。
現実逃避してる人もいるかもしれないが。
こういう、無条件で信じてしまう人が、よく騙されたりとかするんだろうな。
ま、それこそ信じるのは勝手だが、その価値観を他者に押し付けるのは、どこぞの宗教団体の狂信者と変わらない。
他の人の価値観まで強引に変えようとしない方がよかろう。
というか、少しは人の話も聞いてほしいと思うのが、正直なところだ。
というところで、あまりにも長くなったので、この辺で終了とする。