サラリーマンがふらふらと道を歩いてきた。ずいぶん酔っぱらっているようで、顔が真っ赤だ。薄っぺらい書類カバンの重さに振り回されるように右に左によろけている。
 行く手の駅に電車が停まっているのが見えて、サラリーマンはハッと顔を上げた。
「終電じゃないか?」
 急に酔いが覚めたような心地になったが、しっかり酒が染み込んだ体はいうことをきかず足がもつれて道端にたおれこんだ。
 気がつくと道にころがっていた。きれいな星空を見ながら終電が行ってしまったなあ、とぼんやりと考えていると、電車のライトが目の端に見えた。あわてて起き上がると駅に電車が滑り込んできたところだった。
「待ってくれ!」
 サラリーマンはがむしゃらに走り出した。駅についても電車は停まったままでサラリーマンはほっと足をゆるめた。開いている扉から乗り込むと、車内には青い灯りがともって不思議に静かで、なぜか懐かしい場所に来たような気持ちがした。ほかに客は居らず、木製のベンチに薄いクッションを敷いただけの座席は寂しそうだった。男もふと寂しくなって人影を求めて車内を歩きだした。車両の扉が音もなく閉まった。すぐに最後尾に辿りついたが人と会うことはなく、乗務員室をのぞいても車掌もいない。
「ワンマン運行なのかな」
 首をかしげながら、今度は先頭車両に向かった。どれだけ歩いても人影はなく先頭車両にも行きつかない。男は腹の底から不安が湧いてくるのを感じて逃げるように駆け出した。走っても走っても青い灯りが男を照らした。
 ふいに男は足を止めた。何か聞こえた。耳を澄ますとそれは座席の下からだった。床に這いつくばると座席の下に穴が空いていた。風が吹き込み泣き声のように鳴っていた。男は座席の下にもぐりこんで穴をのぞきこもうとした。
 その時、穴の下から手が伸びてきた。男を探すようにペタペタと床を這う。青白く細い腕は、それだけで一つの生き物であるかのように、まるでろくろ首のようにどこまでも伸びた。動けずにいた男の手首をつかむと、腕は信じられないほど強い力で引っ張った。男は穴に手を突っ込む形になった。肩がひっかかって止まったが、青白い手はぐいぐいと引っ張り続ける。肩がちぎれると思ったとき、後ろから声がした。
「お前、それだけ引かれても思い出さないのかい?」
 聞き覚えのある声にふりかえろうとしたが、肩を穴に固定されていて顔を動かせない。
「お仕置きが足りなかったかねえ」
 お仕置きと言うときの微妙な訛りは懐かしいものだった。
「……母さん?」
「やっと思い出したかい」
「母さん、母さん、助けてくれ! 腕かちぎれる!」
「ばかだねえ、そっちは思い出さないかい」
「思い出すって……」
 ふいに男は思い出した。小さな頃、いたずらをするたびに母から聞かされた怖い話だ。
『悪い子は腕を引かれてつれていかれるよ』
 何に引かれるのか、どこへつれていかれるのか語られないのが怖くて泣いた。
「でも母さん、僕はもう子供じゃない!」
「母さんにとっては、いつまでも子供だよ」
「悪いことなんかしてない!」
「いいや、したさ」
 母の声が急に低く恐ろしげに変わった。
「とっても悪い子だ」
 ぞっとして全身の毛が逆立った。肩の痛みも忘れ、首をねじ曲げた。赤黒い足が見えた。ぼうぼうと太い体毛が肌を覆っていた。素足の先にはするどいかぎ爪が光っていた。男は首が折れそうなほど無理やりねじって足から上へ視線を上げた。赤黒く、いかめしく、暴力的で、残虐な体の上に、するどい牙をむきだして笑う鬼の顔があった。
「いたずらしたら罰が当たるぞ。良い子でいなきゃ罰が当たるぞ」
「良い子にしてたよ! 悪いことなんかしてない!」
「いいや、お前は悪い子だ」
「なんでだよ!」
「親より早く死んでしまったではないか」
 男はびくりと震えて動きを止めた。死んでしまった? 恐る恐る後頭部に手をやると、べったりとした何かが手についた。血だ。男には見なくとも分かった。転んだ時に頭を打っていたことを覚えていた。あまりの痛みに意識を手放したことを覚えていた。そこで命を失ったことを覚えていた。
「ほうら、悪い子は地獄へ引いていくぞ。鬼が引いていくぞ」
 男はずるずると穴へ引き込まれながら、ああ、そうかとうなずいた。鬼も地獄も知っていれば怖くはない。痛いだけだ。本当に怖いのは知らないことだ。暗闇にひそむなにものかを想像することだ。
 男は来るべき苦痛をゆったりとした気持ちで待ち受けた。
 母さん、何が引くか、どこへ引かれるか、教えてくれなくて良かった。本当に怖い思いをさせてくれて良かった。
 男は安らかな気持ちで穴に引かれていった。にゅるんと男を飲み込んで、穴は消えた。あとには静かな青い光が無人の電車を寂しく照らしているだけだった。