ヨアヒムの朝は早い。
 まだ陽も昇らぬうちから、ベエベエと鳴きはじめる羊たちにせっつかれ、冷たい草地から身を起こす。
 寝袋として体を包んでいた分厚い織物を、外套として身につける。帽子を被りなおし杖を手にすれば、身繕いは終了である。
 

「ホーホー」
 

 と甲高い声で羊たちに呼びかけると、群れは山の方へ動き出す。

 暗い斜面を羊たちは危なげもなく登って行く。途中、立ち止まって草を食べようとする羊も、ヨアヒムが「チャッチャッ」と舌打ちの音で叱ると、すぐにまっすぐ歩き始める。
 ヨアヒムの群れは4歳以上の大人のメスが主だった。この斜面を登るのも4回目のベテランたちだ。

 春の出産が終わり、子羊たちは夏営地で留守番をしている。昨夕から乳を与えていないため、どの羊もぷりぷりと乳房を重そうに揺らしている。

 夜間放牧は夏の伝統的な放牧法だが、最近は行わないところも増えている。ヨアヒムも夜間放牧をやめるよう父親に進言したのだが、父は黙って首を横に振るだけだった。
 昔気質の父は、変化を良しとしない。荷物を運ぶのに馬ではなくトラックを買うことにも父は反対だった。老いたりといえど首長の意見は絶対だ。ヨアヒムは口をつぐむしかない。

 目的の草地に到着すると、羊たちは勝手に散会して思い思いの場所の草を食みだした。

 ヨアヒムもやっと腰を落ち着けることが出来る。
 肩からさげている水筒から小さなカップに水を注いでインスタントコーヒーの粉を入れる。指でくるくると簡単にかき混ぜてそのまま飲む。粉は溶けきらず舌の上でざらついたが、ヨアヒムはその感触にも満足を覚えた。

 街ではじめてインスタントコーヒーを飲んだときは、天が落ちてきたかと思うほどの衝撃をうけたものだった。
 強い香り、舌を焼く刺激、真っ黒い見た目も、毒でも入っているかのようで恐ろしかった。しかし、飲み干したあとに残る甘いしびれは、ヨアヒムを虜にした。その味は、近代化と都会的なものの象徴だった。


 普段飲み慣れたバター茶の優しい香りを、ヨアヒムはもう、快いものとは感じられなくなっていた。
 父の天幕でもヨアヒムはコーヒーを飲んだ。家族が皆、バター茶を飲んでいる中、一人違う飲み物を飲むことに誇らしさを感じた。父はわずかに眉をひそめたが、何も言わなかった。

 コーヒーと大麦を炒った粉で簡単に食事を済ませると、ヨアヒムは立ち上がる。


「ホーホー」
 

 群れに呼びかける。これから草を食ませながら、ゆっくりと夏営地に下りて行く。天幕にたどり着くころには陽が暮れて真っ暗になっているだろう。まるでヨアヒムのコーヒーのように黒い空になっているだろう。


 ゆっくりと下りよう。
 ヨアヒムは焦らない。ゆっくり進めば、なにごとも難しいことはないのだ。
 そうヨアヒムに教えたのは父であったのだが。
 ヨアヒムは帰ったら真っ先に楽しもうと思っている、温かいインスタントコーヒーのことに夢中で、父の言葉を噛みしめることを忘れていた。