仏教の高校なんて暗そうでイヤ、と美紗は文句を言ったのだが、ママは母校への思い入れが強くて、どうしても美紗を通わせたいと、他の学校を受験させてくれなかった。
中学校の担任が、せめて滑り止めを一校だけでも受けさせましょうと言ってもママは聞く耳をもたなかった。
高校浪人にならないために必死で勉強した美紗は、無事に、嫌々ながら、仕方なく、仏教校で学ぶことになった。
入学式が始まった途端に、美紗はうんざりして、口を半ば開けてうめいた。
講堂のステージのど真ん中に金色に輝く仏像が立っていて、新入生を見下ろしていた。
登壇した校長は袈裟姿で、仏像に頭を下げると、お経を唱え出した。美紗は度肝を抜かれたが、居並ぶ新入生たちは平気な顔で聞いている。中には一緒になってお経を呟く子までいる。美紗は来る場所を間違ったのだと深く後悔した。
仏像礼拝以外は珍しくもなく普通の入学式だった。教師のうち半分が袈裟を着ていることを除けば、廊下も教室も普通だった。畳敷きだったらどうしよう、と本気で恐れていた美紗は、ほっと息を吐いた。
新入生たちが座席表も無視して騒ぎ出したころ、教室にお坊さんが入ってきて、美紗はまた度肝を抜かれた。
担任教師がお坊さんかもしれないとは覚悟をしていた。驚いたのはそのお坊さんの美貌にであった。
色白の肌に墨染の衣がよく映えた。すらりと背が高く姿勢が良い。瞬きしたらバサバサ音をたてるのではないかと思うほどに睫毛が長い。鼻が高くすっと通っていて、澄んだ瞳は思慮深さを感じさせた。そして、奇跡のように美しい形の唇から深い声があふれでた。
「オラ、お前ら、席につかんかい!」
教室がしんと鎮まった。誰もが身動きもできない。
お坊さんは「チッ」と舌打ちすると黒板にでかでかと名前を書いた。
「橘英哲。二度は言わんぞ、一度で覚えろ。お前たちの担任だ。担当は体育」
「体育!?」
思わず美紗の口から叫びがこぼれた。英哲はギヌロと美紗を睨んだ。
「あぁ? 体育になんか問題があるかぁ?」
美しい顔から出てくる麗しい声ですごまれると必要以上に怖かった。美紗は身を縮めて思いっきり首を横に振った。
「ようし。文句はないな。あっても聞かんぞ」
そう言いながら英哲はふところから出席簿を取りだし、点呼を始めた。生徒たちは一種の連帯感を覚えた。「この坊主に関わったら、面倒くさいぞ」と。
しかし美紗はあろうことか、驚きのあまり名前を呼ばれても返事もできすにぼんやりしていた。英哲はすっと眼を細めると美紗を見据えて「あとで職員室に来い」と言って点呼を続けた。
教室から同級生たちが帰ってしまっても、美紗はぐずぐずと席をはなれなかった。なんだか知らないが訳のわからない英哲に呼び出されたのは怖かった。
けれど行かないのは、もっと怖い。覚悟を決めて立ち上がった時に、教室に英哲がやって来た。
「あ、あの、すみません、先生! 今から行くところでした!」
「教室にいて正解だったぞ。言い忘れたが、職員室は別棟にあるんだ」
それを知らなければ、美紗は校舎内をさ迷い続けただろう。ムッとした美紗にはかまわずに、英哲はふところから一枚の紙を取りだした。どうやらふところはお坊さんにとってのポケットらしいと美沙は大発見をした。
「入学前アンケートについてだ。お前、自分で書かなかっただろう」
そう言えば、入学許可証と一緒にそんなものがあった気がする。書類はみんなママに預けたから、美紗はくわしくは知らない。宿題のようなものだったんだろうか。叱られるのだろうかと思った途端に口から嘘が飛び出した。
「自分で書きました!」
「ほう? なら、校訓を言ってみろ」
「う……」
たしか校長が、そんなことを話していた気がするが、覚えてはいなかった。
「このアンケートにはしっかり書いてあるがな」
「すみません、私は書いてません……」
「無駄なウソをつくな。えんまさまに舌を抜かれるぞ」
「すみません……」
「お前の親はここの出身だな。学校をベタ褒めだ」
ママが書いたのかと美紗は肩を落とした。それじゃあ、簡単に見抜かれる。ママは流麗な崩し字を書く。
「新入生にはそんなヤツはなかなかいない。この学校がレンコンと呼ばれているのを知ってるか?」
「はい……」
美紗が入学を渋った原因の大部分はレンコン呼びのせいだった。友人は皆、「レンコン高校に行くの!?」と眼を丸くした。レンコンと言われるのは制服が淡いベージュ色で、どことなくレンコンを想像させるからだ。
「レンコンは制服のせいだけじゃない」
心を読まれたかと美紗は動きを止めてこわごわと英哲を見上げた。
「心配するな。坊主は超能力は使わない」
そう言われるとますます不安で、美紗は無心で英哲の言葉を待った。
「泥の中から立ち上がれ」
無心の美紗は無言で聞いていた。
「校訓だ。仏教校らしいだろう」
中学校の担任が、せめて滑り止めを一校だけでも受けさせましょうと言ってもママは聞く耳をもたなかった。
高校浪人にならないために必死で勉強した美紗は、無事に、嫌々ながら、仕方なく、仏教校で学ぶことになった。
入学式が始まった途端に、美紗はうんざりして、口を半ば開けてうめいた。
講堂のステージのど真ん中に金色に輝く仏像が立っていて、新入生を見下ろしていた。
登壇した校長は袈裟姿で、仏像に頭を下げると、お経を唱え出した。美紗は度肝を抜かれたが、居並ぶ新入生たちは平気な顔で聞いている。中には一緒になってお経を呟く子までいる。美紗は来る場所を間違ったのだと深く後悔した。
仏像礼拝以外は珍しくもなく普通の入学式だった。教師のうち半分が袈裟を着ていることを除けば、廊下も教室も普通だった。畳敷きだったらどうしよう、と本気で恐れていた美紗は、ほっと息を吐いた。
新入生たちが座席表も無視して騒ぎ出したころ、教室にお坊さんが入ってきて、美紗はまた度肝を抜かれた。
担任教師がお坊さんかもしれないとは覚悟をしていた。驚いたのはそのお坊さんの美貌にであった。
色白の肌に墨染の衣がよく映えた。すらりと背が高く姿勢が良い。瞬きしたらバサバサ音をたてるのではないかと思うほどに睫毛が長い。鼻が高くすっと通っていて、澄んだ瞳は思慮深さを感じさせた。そして、奇跡のように美しい形の唇から深い声があふれでた。
「オラ、お前ら、席につかんかい!」
教室がしんと鎮まった。誰もが身動きもできない。
お坊さんは「チッ」と舌打ちすると黒板にでかでかと名前を書いた。
「橘英哲。二度は言わんぞ、一度で覚えろ。お前たちの担任だ。担当は体育」
「体育!?」
思わず美紗の口から叫びがこぼれた。英哲はギヌロと美紗を睨んだ。
「あぁ? 体育になんか問題があるかぁ?」
美しい顔から出てくる麗しい声ですごまれると必要以上に怖かった。美紗は身を縮めて思いっきり首を横に振った。
「ようし。文句はないな。あっても聞かんぞ」
そう言いながら英哲はふところから出席簿を取りだし、点呼を始めた。生徒たちは一種の連帯感を覚えた。「この坊主に関わったら、面倒くさいぞ」と。
しかし美紗はあろうことか、驚きのあまり名前を呼ばれても返事もできすにぼんやりしていた。英哲はすっと眼を細めると美紗を見据えて「あとで職員室に来い」と言って点呼を続けた。
教室から同級生たちが帰ってしまっても、美紗はぐずぐずと席をはなれなかった。なんだか知らないが訳のわからない英哲に呼び出されたのは怖かった。
けれど行かないのは、もっと怖い。覚悟を決めて立ち上がった時に、教室に英哲がやって来た。
「あ、あの、すみません、先生! 今から行くところでした!」
「教室にいて正解だったぞ。言い忘れたが、職員室は別棟にあるんだ」
それを知らなければ、美紗は校舎内をさ迷い続けただろう。ムッとした美紗にはかまわずに、英哲はふところから一枚の紙を取りだした。どうやらふところはお坊さんにとってのポケットらしいと美沙は大発見をした。
「入学前アンケートについてだ。お前、自分で書かなかっただろう」
そう言えば、入学許可証と一緒にそんなものがあった気がする。書類はみんなママに預けたから、美紗はくわしくは知らない。宿題のようなものだったんだろうか。叱られるのだろうかと思った途端に口から嘘が飛び出した。
「自分で書きました!」
「ほう? なら、校訓を言ってみろ」
「う……」
たしか校長が、そんなことを話していた気がするが、覚えてはいなかった。
「このアンケートにはしっかり書いてあるがな」
「すみません、私は書いてません……」
「無駄なウソをつくな。えんまさまに舌を抜かれるぞ」
「すみません……」
「お前の親はここの出身だな。学校をベタ褒めだ」
ママが書いたのかと美紗は肩を落とした。それじゃあ、簡単に見抜かれる。ママは流麗な崩し字を書く。
「新入生にはそんなヤツはなかなかいない。この学校がレンコンと呼ばれているのを知ってるか?」
「はい……」
美紗が入学を渋った原因の大部分はレンコン呼びのせいだった。友人は皆、「レンコン高校に行くの!?」と眼を丸くした。レンコンと言われるのは制服が淡いベージュ色で、どことなくレンコンを想像させるからだ。
「レンコンは制服のせいだけじゃない」
心を読まれたかと美紗は動きを止めてこわごわと英哲を見上げた。
「心配するな。坊主は超能力は使わない」
そう言われるとますます不安で、美紗は無心で英哲の言葉を待った。
「泥の中から立ち上がれ」
無心の美紗は無言で聞いていた。
「校訓だ。仏教校らしいだろう」
仏教と泥に何か関係あるんだろうか。
「仏像の台座には多く蓮の花がかたどられている。それは世俗という泥の中から現れ悟りを開く仏の姿を、蓮にたとえているんだ。蓮は泥が濃くないと大輪の花を咲かせないからな」
それがレンコンとなんの関係があるのだろうか。
「レンコンは蓮の根だ。料理をしないなら知らんだろうが」
「先生、やっぱり私の心を読んでますよね?」
「坊主は超能力は使わん。法力だ」
「読んでるんじゃない!」
「冗談だ。毎年、何人もの生徒と同じ問答をするんだ。いいかげん、暗記した」
何人も自分と同じでアンケートも仏教も知らない生徒もいるのだと分かって美沙はほっとした。
「今年はどうもお前だけみたいだがな」
「そんなあ」
「希少価値があっていいだろう。それと、アンケートに不得意科目、体育と書いてあったが」
「それは本当です」
「そうかそうか。念入りに指導して体育好きにしてやるから、覚悟しておけ」
美沙は正直であることの価値に疑問を抱いた。うそつきのほうが社会を泳いで生きやすいのではないか。
「まあ、嘘をつかなかったのは評価できる。正直は美徳だぞ」
「だから、心を読まないでくださいってば」
「校則は覚えたか」
「えっと、泥の中から……、泥の中でも? いや、泥水を飲んでも?」
英哲がため息をつく。
「お前は泥水を飲みたいのか」
「泥水を飲んでも美しい! でしたよね?」
英哲はふわりとほほ笑んだ。まるで大輪の蓮の花が咲いたかのように芳しい香りまで感じる笑みだった。思わず見とれた美沙に英哲は真面目な顔になってたずねた。
「お前の腹は泥水にも負けないほど強いのか。でも泥水は飲むな」
「えっと、で、正解はなんでしたっけ」
英哲はふところからもう一枚、アンケート用紙を取り出した。
「思い出せ。そして書け。今度こそ自分で、正直にな」
美沙は入学初日から出された宿題に渋い顔をした。英哲はまた美しく笑うと教室を出ていった。アンケート用紙に目を落とした美沙は「うわあ……」と絶望的な声を上げた。
A4サイズのアンケート用紙は細かい文字でびっしりと、100の質問で埋め尽くされていた。もう適当に書き散らかせばいいや、とカバンに突っ込もうとして、美沙はふと手を止めた。
「正直は美徳、か」
アンケート用紙をきちんと折り畳みカバンに入れて教室を出た。
「あ! 泥の中から這い上がれ! だったよね!」
よしよし、思い出したぞ、と得意になって足取り軽く家に帰った美沙は、翌日、英哲から校則を間違えるなとくどくどと説教されることになることを、まだ知らない。