なんにも気がのらない時というのはあるものだ。我が主は今そんな状態らしい。部屋の隅にごろりと転がり目をつぶっているが、眠ってはいない。ここ四日、この通りである。腹がへったら、のっそり起き上がり冷蔵庫を漁っているので餓死する心配はなかろう。
 申し遅れたが、我輩は靴である。履き古されたスニーカーである。ブランドものなどではない。980円で叩き売りになっていたところ主の目にとまり、この部屋にやって来たのだ。
 一ヶ月ほど前、我輩の隣に新入りがやってきた。新品の革靴である。そやつは19800円のフレッシャーズ応援スーツ6点セットの中の1点であった。ぴかぴかであるのを鼻にかけ他の靴を小バカにしおる。古参の中でも主の寵愛を一心に受けた我輩としては面白くはなかった。
 その革靴が日に日に弱ってきた。靴というのは毎日続けて履くと消耗が激しい。主は革靴がやってきてからは毎日スーツを着て革靴を履いて朝早くから夜遅くまで出かけている。無精なところがある主だから、靴を磨くこともない。革靴は一ヶ月で哀れな様相に落ちぶれた。
 革靴の凋落ぶりにあわせたかのように主もまた、ひしゃげていった。一ヶ月前は、にこやかにドアを出ていったものだが、最近は足を引きずるように帰宅する。その挙げ句、今の無気力である。
 我輩は不本意ながら革靴に話しかけた。
「お若いの、いったいこの一ヶ月、主に何があったのだろうか」
 ぐったりしていた革靴は消え入るような返事をした。
「就職活動ですよ」
「就職活動?」
 たしかその言葉は、主の先輩が一年ほど前に何度となく繰り返していた。先輩諸氏もスーツに革靴姿だった。
「その就職活動がどうかしたのか」
「面接に落ち続けで、もうやってらんないんですよ」
「一度や二度の失敗で……」
「二十件ですよ。あちこち歩いてまわって二十件連続でダメなんですよ」
「む。二十件だめなら二十一件目が……」
「もう無理なんだよ! これ以上歩くなんて僕には無理なんだよ!」
 革靴はホコリだらけの体をふるわせて叫ぶ。ホコリがこちらに舞ってきて甚だ迷惑した我輩は、それ以上革靴を刺激しないことにした。
 主がのっそりと起き上がると玄関に向かってきた。ジーンズ姿で革靴はないだろうと思っていたら、案の定、我輩に足を向けた。一ヶ月ぶりの主の体重を受ける。どうやらかなり痩せてしまったらしい。
 部屋を出た主は足を引きずるように歩く。我輩は靴底がすり減るのが心配でハラハラしていた。主はコンビニに入ろうとしたが、ふと立ち止まり財布の中身を確認して激安スーパーまで歩いていった。三十分も引きずられ、我輩はいささかくたびれた。底は減るし靴紐は結ばれないまま地面に這っているし、散々だ。
 食料品を買い込んだ主はまた我輩を引きずって帰宅した。なんとか靴底に穴を開けずにすんだ我輩が安堵の息を吐いていると革靴が同情のこもった声を出した。
「疲れた主のお供は大変ですよね」
 若輩の弱音にいささか腹が立つ。
「我らは主あってこその命、主を軽んじるような言葉はいかん」
「でもこのままじゃ僕はもうお役ごめんでしょうし、あなたはいつ破れるか……」
 一理も二理もある革靴の意見に我輩はうなった。
「なんとか主の鋭気を駆り立てねばならんな」
「なんとかと言ったって何もできやしませんよ」
「我輩は裏返る」
「え?」
「ある日突然、玄関で靴が裏返っていたら驚くだろう」
「はあ」
「驚けば目を見開く、背筋も伸びる。そうするとやる気も出る」
「そんなものですか」
 我輩は渾身の力で身を揺らした。なんとか裏返ろうと粉骨砕身した。
「……大丈夫ですか」
 革靴が呆れたようにたずねた。
「大丈夫なものか! お前も手伝え!」
「えー……」
 ぶつぶつ言いながらも革靴は身を寄せ我輩を支えてくれた。我輩は革靴に靴底を当て、えいや! と裏返った。
「どうだ!」
「……はあ」
「我輩はやった!」
「……はあ」
「えい、感動の薄いやつめ、これで主はしゃっきりするぞ!」
 しかしそれから一週間、主は寝たまま過ごし我輩に気づくこともなかった。
 主が玄関に出てきたのは我輩が裏返ってから二週間、きっと冷蔵庫の中身が空になったのだろう。ジーンズ姿の主は我輩に足を伸ばしたが、裏返った我輩に気づくと隣の革靴に足を入れた。主はティーシャツ、ジーンズ、就職活動用の革靴という出で立ちで出ていった。革靴が「底が減る~」という力ない叫びが哀れだった。
 それより哀れだったのは我輩だ。主のためを思った必死の努力のせいで主の寵愛すら失ってしまった。我輩はぐったりと地面に伏した。靴紐はしなびた切り干し大根の煮物ようだった。乾物が一度は戻ったのにまたしなびたのだ。その哀惜や、いかに。
 主が戻ったとき、革靴が叫んだ。
「やりましたー!」
 なんのことやら分からずにいたが、主は革靴を脱ぎ捨てると部屋に駆け込み手にしていた封筒を破いて開けた。中の手紙を見るなりガッツポーズを決めた。
「内定ですよ!」
 興奮した口調の革靴が叫ぶ。
「やっと報われたんですよ! 僕の一ヶ月が! ばんざい!」
 部屋の中央では主が不思議な踊りを踊っている。革靴はばんざいを叫び続ける。我輩は裏返ったまま、なんとはない寂しさを感じていた。
 それから主は革靴を履いて出かける日々だ。生き生きとして笑顔がまぶしいほどだ。
 我輩はというと今も玄関の片隅でひっくり返っている。毎朝、革靴に靴紐を踏みにじられている。まあ、それも仕方なかろう。我輩は980円分もう働いたのだ。役目は革靴が引き継いだということだ。老兵は去るのみだ。

 主の就職が決まった。主はこの部屋を出て新しい住み処へ移る。我輩はこの部屋とともに忘れ去られよう……。
 主が我輩に手をかけた。ああ、とうとう我輩はごみ袋に入れられるのだな、と覚悟を決めたその時。我輩は優しく返され、主の重さを受けた。主はまた我輩を履いてくれた。じんわりと主の温かさが伝わってくる。ずっと玄関に横たわっていたせいでホコリっぽい我輩を主は気にもせず履いてくれた。なんと心地よい重みだろう。我輩は擦りきれそうな靴底を叱咤して歩き出す。引っ越し荷物を運ぶ主と共に、どこまでも歩いて行く。
「あーれー……」
 か細い悲鳴に振り返ると革靴がゴミ袋に捨てられるところだった。長い就職活動の間に擦りきれ与太れた革靴。ああ、革靴よ。成仏しろよ。我輩は主についてどこまでも行く。
 べり。
 といやな音がした。我輩の側面が裂け、靴底との間に隙間ができた。主は黙って我輩から足を引き抜くと我輩をゴミ袋に入れた。そうして下駄箱から新しいスニーカーを取り出した。ブランドもののぴかぴかの新品だ。主はそれを履いて部屋を出て行った。我輩と革靴は取り残されゴミ収集車に乗せられた。
 ああ、主よ。共に歩んだ我輩を忘れずにいてくれるだろうか。980円の持ちの良いスニーカーのことを覚えていてくれるだろうか。新しいスニーカーと同じくらいあなたを支えた靴のことを覚えていてくれるだろうか。
 我輩と革靴はクズと共に封をされた。そうして主は新しい一歩を踏み出した。