今も僕の手元には、レストランの会報希望者名簿というのがある。




お店にきた人で、僕が月1度発行する、レストランのニュースの送付を希望する人に住所を記入してもらったノートだ。




田口さんたちの北京師範大学に始まり、語言学院、精華大学、北京大学、北京外語、人民大学、音楽学院、戯

劇学院、などの市内の大学の名前のほかにも、遼寧大学、南京大学などの地方の大学名もある。




またジャイカや三井物産、日本航空などの名前もある。




6月に入ると、だんだん日本の住所が増えてきた。




卒業したら帰国する人も、新聞が届くのを楽しみにしていてくれる。



ありがたいことです。






はじめてお店にきた人は、感動して悲鳴をあげる



メニューをいつまでもながめて、注文するのも忘れてしまう。



僕が北京中を歩いて探した食材で作ったメニューの奇跡をだれもが瞬間に理解する



出てきた、料理を涙を浮かべて食べた人はけっして少なくはない



僕は日本に帰国したあと



「どうしてレストランを日本でしないのか?」とよく聞かれた



たぶん、話しても理解できないと思うので、笑って答えなかったが



このときの、「お客さんを感動させたい」と言う気持ちと



「ひとつの料理にかける思い」は日本ではできる気がしなかった。





そして、僕だけでなく、ここでは、お店に来る人全員が仕事に、勉学にがんばってきたのだ。



彼らの中国での生活を聞きながら、本当にたくさんの貴重な友人が増えていくのを感じた。



2回目には必ず新しい、友人を連れてきてくれた。



よく常連の人が「うちの店」という表現をした。



最初は彼もお店をしてるのかと思ったら、僕たちのレストランを「うちの店」と自分のことのように心配してくれていた。



そんな彼らのおかげで、たった1枚の張り紙が、あっという間に北京中に広まっていった。









今までこのお店を育ててくれた仲間に、何かお返しが出来ないか考えていた。



僕は日本の社長にお願いして、オープン1周年パーティーというのを企画した。