1990年5月1日 西単の近くにある六部口という小さい胡同のなかで爆竹がなり響いた
いよいよ、レストランはオープンの日を迎えた。
お店の名前は北京ダイヤモンドレストラン
室内には日本の曲が流れていて、エアコンが効いていて、おしぼりがでて、冷たいお水がでてくる
曲は今井美樹のアイボリーが永遠に流れてました、もちろん調理長の趣味で
1989年12月に発売されたこのアルバムは訪中の前に修行先のスタッフがくれました。
当たり前のことですが、当時北京ではホテル以外で缶ビールが冷えてるレストランさえほとんどなかった時代です。
準備は万端、材料もたくさん用意しましたが、11時のオープンで最初のお客さまがみえたのは
12時半をすぎたころでした。
70歳は超えているような老夫婦が一組お店に入ってくると
「こちらのお店は人民元は使えますか?」と聞いた
当時中国には外国人専用の兌換券 と中国人が使う人民元の2種類のお金があった。
店長が 「もちろん使えますよ」というと老人は安心して席についた。
「こちらのお店は禁煙ですか?」と次に聞いた
まだこのころの中国で禁煙のお店はみたことないし、テーブルに灰皿を置いているのに
「どうぞ、吸ってください」再び店長が答える
老人はタバコに火を搗けるとメニューを見ずにカレーを二つ注文した。
帰りに老人が僕に話しかけてくれた
「とてもおいしかったです。私は戦前北京で日本料理を食べたことがあります。こうしてまた50年ぶりに日本料理を食べることができる時代になりました。」
結局 この日のお昼は1組12元の売り上げだった。 (200円ぐらい)
たった12元の料理とはいえ、当時北京の平均月収は300元ぐらいだった。
このお昼の出来事は、22歳の僕に強烈な衝撃をあたえた。
とんでもないことになった。
生まれてはじめて食べる外国料理を僕が作るのだ。
いいかげんな気持ちではとても料理はつくれない。
こうして、約4年続く、命がけの料理との戦いが始まった。
夕食の時間も店長の友人以外は1組だけだった。
閉店後アルバイトの陳さんに聞いてみた。
「あなたの大学には日本人がいますか?」
「はい。留学生がたくさんいます。」
「じゃ、この紙を宿舎に張ってきてもらえますか?」
そこには
北京ダイヤモンドレストラン 新規オープン
日本人のシェフが料理を作っています。
ビーフカレー 6元より
あとは、簡単な地図と住所だけ
こんな張り紙で本当にお客様が来てくれるのか半信半疑だった。