なるほど、あれから19年たったのかと思う。
19年前の6月4日は地元の青年会のバス旅行で神戸にいった。
楽しげに、浮かれるバスの車内で僕だけが暗く沈んでいた。
この日、北京の天安門広場で民主化を求める学生数千人が戦車にひき殺される事件がおきた。
日本の朝刊にも、朝のTVでも報道されたが、残念ながら地元の若い友人が問題にするほどの事件ではなかったのかもしれない・・・。
そういう僕も、去年あたり、イラクの自爆テロのニュースを聞いても、普通に悲しまなくなってしまっている。
年を重ねるとはそういうことなのかもしれない。
19年前の5月、僕は父親から中国旅行をプレゼントされた。
出発日はくしくも僕の21回目の誕生日。
その日、北京の街は100万人の民主化を求める市民でうめつくされた。
中国は即日、戒厳令を発動、僕たちの飛行機が日本から乗客を乗せて飛び立つ最後の便となった。
故宮博物館の見学が中止になったぐらいの他は僕たちのツアーは順調そのものだった。
北京の次に西安にいったとき、日本語を勉強中の学生に声をかけられた。
二人でカラオケに行くことになり、選んだ曲は「いちご白書をもう一度」
残念ながら僕たちは安保を知らない、でも民主化を求める学生の気持ちはとてもよくわかる。
北京ー西安ー太原ー大同と回り、再び戻ってきた北京はかなり平穏をとりもどしていた。
デモの人数も万単位から数千、数百に規模もだんだん縮小されていた。
日本に帰った僕は人に聞かれると、「デモは終わりでしょう」 「近いうち戒厳令も解除されるでしょう」
と答えていた。
そのとき、僕はこどもだった、考えが幼稚だった、国家というのはそんなに甘くはなかったのだ。
帰国したのは28日、そしてその1週間後事件はおこった。
最後まで、天安門広場にテントを張って、残っていた数千人の学生を夜中から未明にかけて、戦車でひき潰してしまったのだ・・・。
18歳から3年連続で訪中した僕はその年初めて、違う国に旅行した。
年末、年始をかけて、ロンドン、ローマ、パリを訪れた。
小学生の時から中国留学を夢見ていた僕にはつらい決断だった。
留学先をヨーロッパに探しにいったのだ。
そして、帰国した僕はY社長に呼ばれた。
「君、中国で働いてみないか?」
僕は耳をうたがった、まだ戒厳令さえも解除されてなかったから。
まだ、このときは半信半疑だった僕はこの一月後、もう一度北京に行くことになる。
最初の中国ではなく、4回目の中国を最初にえらんだのは理由があります。
東西ドイツの崩壊にはじまり、ゴルバチョフの訪中で一気に爆発した当時の民主化デモ。
翌年の北京アジア大会を控えて、中国政府が選んだ手段は、武力鎮圧。
僕はここ数年、世界の注目する北京オリンピック前に、あのころと同じような事件がおきないかとても心配していた。
あれから20年がすぎて、僕がおもっている以上に中国の人々は幸せになったのかもしれない。
オリンピックまであと半年、僕の心配が取り越し苦労でおわることえを願わずにはいられない。