最近、95歳になる母の状態が大きく変化し、看取りを意識する時期に入ってきました。
そんな中で私は、悲しみや喪失感というよりも、これまで歩んできた人生の意味を改めて深く実感しています。
心身魂の統合というテーマに取り組み始めてから、私はずっと「孤独」「寂しさ」というものと向き合ってきました。
そして今、母の人生の終盤に立ち会う中で、その意味がひとつにつながってきたように感じています。
幼い頃の寂しさ
私には忘れられない早期回想があります。
幼稚園の頃、熱を出して寝込んでいた日のことです。
朝、母は仕事に行く準備をしていました。
私は布団の中から、
「今日は休んでくれる?」
と聞きました。
しかし母は、何も言わず、そのまま仕事へ出かけていきました。
幼い私には、それがとても寂しかったのです。
今振り返ると、その時の私は「置いていかれる寂しさ」を強く感じていました。
見捨てられ感もあったかもしれません。
しかし、今になって別の見方もできるようになりました。
母もまた、病気の息子を残して仕事へ向かうことに、後ろ髪を強く引かれる思いだったのでしょう。
だから、何も言えなかった。
そして、辛そうな表情をしていたように思います。
母は大学の教員をしていたので、簡単に休むことができませんでした。
私も大学教員時代があり、その職責を実感することができるようになりました。
つまり、休みたくても休めない事情もあったでしょう。
幼い私には見えなかった母の苦労や葛藤が、今ではとても想像できるようになりました。
私はひとりではなかった
もっとも、私は完全にひとりだったわけではありません。
母方の祖母が私の世話に、実家を捨てて来てくれていました。
振り返れば、私は祖母に育ててもらいました。
ですので、母がいないときも、ひとりぼっちという感覚はありませんでした。
また母は、私のやりたいことに対して反対することがほとんどありませんでした。
興味を持ったことは自由にやらせてくれました。
ボーイスカウト活動、少林寺拳法、スキー、オーディオもそうです。
中学・高校時代になると、私は家にいるよりも外で活動している時間の方が長くなりました。
さらに、中学時代の私が夢中になっていたオーディオ機器も、決して裕福ではなかったはずなのに、無理をしながら買ってくれていました。
大人になってからも、大きなしくじりから、仕事も家も地位も名誉も失って実家に帰った時も、一言も恨み言を言うことなく、むしろ帰ってきたことを喜んでくれて、すべてを受け入れてくれました。
このようなことから、私は母を恨んだことはありません。
表面的には寂しさを感じていた記憶も、幼稚園時代以降はほとんどありませんでした。
しかし、その幼い頃の体験は、私の心の深いところに静かに残っていたのでしょう。
孤独という人生のテーマ
私は今、その幼い頃の体験が、人生を通じて向き合うテーマの入り口だったように感じています。
それは母が悪かったという話ではありません。
むしろ、母も精一杯生きていました。
そして私もまた、その人生を生きていました。
しかし、その中で私は「孤独」という感覚を体験したのです。
長い人生の中で、私が仕事で忙しくしていたことや、外での活動に積極的に出ていたのは、どこかでその孤独を埋めようとしていたともいえます。
理解してほしい。
認めてほしい。
受け入れてほしい。
そうした願いは、多かれ少なかれ誰の中にもあるものです。
されど、心身魂の統合に取り組む中で、私は少しずつ理解するようになりました。
孤独というものは、誰かに埋めてもらうものではない。
本当に必要なのは、自分自身がその孤独を抱きしめていくことなのだと。
母との魂の約束
私はスピリチュアルな世界観を大切にしています。
その中には、「魂は生まれる前に約束をしてくる」という考え方があります。
もちろん、それを証明することはできません。
されど今の私には、母との関係をそう捉えることが自然に感じられるのです。
もしかすると私たちは、生まれる前にこんな約束をしていたのかもしれません。
「私は今生での魂の成長のために、孤独を体験してみたいので、あなたは共働きの母を演じてくれますか。」
「では、私は共働きの母を演じて、あなたが発熱してもおいていくようにするね。あなたはその中で孤独を体験してみて。」
「ありがとう。そして最後には、その孤独を誰かに埋めてもらうのではなく、自分自身で癒せるようになろう。」
そんな約束です。
もしそうだとしたら、母は本当にその役を見事に演じてくれました。
そして私もまた、その体験を十分に味わいました。
だから今の私の中には、母を責める気持ちはひとかけらもなく、感謝しかありません。
母もまた、自分の人生を懸命に生きてくれていたのですから。
深まっていく確信
今回の母の状況を通して、私は新しいことに気づいたわけではありません。
むしろ、これまで統合の道を歩む中で感じてきたことへの確信が深まっている感覚です。
孤独の反対は、誰かがそばにいることではない。
本来の自分とのつながりなのだということ。
そして、自分自身の存在そのものを受け入れることなのだということ。
私は今、
「一人でいても満たされている」
という感覚を少しずつ実感しています。
もちろん家族もいます。
仲間もいます。
支えてくださる方々もいます。
されど、その人たちが私の欠けた部分を埋めてくれるから満たされるのではありません。
私が私自身であることを受け入れられたとき、人とのつながりもまた自然なものになるのだと思います。
母との物語の意味が完成しつつある
今、母との物語は終わろうとしているのではありません。
むしろ、その意味が完成しつつあるように感じています。
幼い頃の寂しさ。
人生の中で感じた孤独と見捨てられ不安。
それらを経て、
「孤独は誰かに埋めてもらうものではなく、自分自身で癒していくもの」
ということを学ぶ。
それが私の今生における人生の大切なテーマのひとつだったのでしょう。
そして今、母の人生の終盤に立ち会いながら、そのことを深く実感しています。
母は私に多くのものを与えてくれました。
自由を与えてくれました。
挑戦する機会を与えてくれました。
そして何よりも、私がこの人生で学ぶべき大切なテーマと向き合う機会を与えてくれました。
だから今、母に伝えたい言葉があります。
「長い間、本当にありがとう。もう十分だよ。本当にたくさんのことを学ばせてもらいました。」
そしてインナーチャイルドのみのちゃんにも伝えたいのです。
「大丈夫だよ。みのちゃんが探していたものは、ずっと君の中にあったんだよ。」
そうして私は、母が穏やかに宇宙へ還っていく姿を見守りながら、自分自身もまた新しい人生の章へと歩み始めています。
長い旅でした。
本当に長い旅でした。
そして今、その旅の意味が静かに完成しつつあることを、深い感謝とともに感じています。🍀

