九品仏編(17)
そんな大昔の話を今頃されて、あなたもさぞお困りでしょう。お話ししたいこと、お訊ねしたいこと、本当はたくさんあるのですが、そろそろこの辺で終わりにします。あなたを困らせることが目的ではございません。ただ遠い昔のあの日に私を置き去りにしていなくなってしまったあなたへ、ちょっとだけ意地悪をしてみたかったの。それくらい、いいでしょう?
ドイツに留学することを私に告げた日、なぜもっと早く言わなかったのかってあなたを責めたこと、憶えている?あなたは自分のすることに私が興味を持たないと思ったからって、小さな声で言ったわ。その言葉、その時のあなたの声、今でも忘れていません。そして私、それを聞いた瞬間に気づいたの。あなたが私のしていることを『年上女の気まぐれ』だと思ってるらしいって。そんなこと考えたこともなかったから、その言葉は正直とてもショックでした。だけれど一方で、お付き合いしているあなたの気持を私がすこしも想像できていなかったことも事実でした。確かに最初のきっかけはそう思われても仕方のないことだったかもしれない。でもね、それはあなたの思い違いなのよ。私は初めて見た時からあなたのことが好きでした。今だから確かに言えます。『年上女の気まぐれ』なんかじゃなかったの。神様に誓って。
九品仏の駅からあなたを乗せて走り去る電車の赤いテールライトを今でも憶えています。あなたがあのまま行ってしまう人でないことは信じていました。今もその気持ちに変わりはありません。連絡がなかったのは何かどうにもならない事情があってのことで、それができないことに焦るあなたの顔や心の葛藤が私には手に取るように見えていました。それでも、出発の予定日が過ぎ1か月くらい経った頃に洋子さんからあなたが旅立ったことを聞かされた時、さすがに全身から力が抜けて行くような感覚を味わいました。想像してみて。その時私の中で何が起こったかを。だってそうでしょう?1年にも満たない内に、私は二人の男性に捨てられたのよ。あなたは違うと言うかもしれない。でも私にとって客観的事実はそうだったの。
自分が納得できないことをそのまま放置することが嫌いな私の性格、あなたはご存じなかったかしら?でもね、その時は心の奥底に澱となって沈んだままの『年上女の気まぐれ』という意識が私の行動にブレーキをかけたのです。
私はあなたとの思い出を小さな箱に入れ、厳重に鍵をかけて主人と結婚しました。そして彼と共にとても良い人生を送らせてもらいました。本当です。主人はどんな時でも穏やかな人で、生涯私と私の家族を真面目過ぎるくらいに愛してくれました。
妙蓮寺に戻って4年、自由が丘に行く機会は何度もありました。でもあの辺りには無意識の内に近寄らなかったのだと思います。去年の10月の下旬だったかしら。お友達のご用に付き合わされて、何十年かぶりに自由が丘デパート沿いのあの道を歩きました。その時、やっぱり気になってあの路地を覗いてみましたの。そうしたらなんと、見覚えのあるお店が石段の脇にそのままの姿であるじゃないですか。まさかとは思いましたが、試しにお店の前まで行ってみました。案の定、お店の名前は変わっていてしかもパスタ屋さんになっていました。その時の落胆と安堵とが入り混じった気持ちはとても複雑でしたわ。そして、40年以上も経っていればそれは当たり前のことだとひとり納得もしました。丁度お昼時だったので、懐かしさも手伝いお友達と入ってみることにしましたの。聞いたことのあるようなドアベルの音に迎えられてあの階段を下り、オープンキッチンに改装されていたカウンターの中を覗いてみましたわ。そうしたら、そう、白髪になられたマスターがあのお顔でフライパンを振っていらしたの。本当にびっくりしました。まさか憶えていてくれるはずはないとしばらく様子を伺っていましたが、思い切ってお食事の後マスターに話しかけてみたのです。そうしたらマスター、すぐに思いだしてくれましたの。私のフルネームをスラスラ言ってくださったのには驚きましたが、とてもうれしくて涙が出そうになりました。そして帰り際にマスターが、皆さんと一緒にあなたが写っている写真を見せてくれたのです。
6月にまたお会いできるという思いはありました。その時こそ、もしかしたらいろいろなお話ができるかもしれないと。ところが2月の初旬、母が風邪をこじらせてあっけなく逝ってしまいましたの。96歳でした。それでニューヨークから娘が戻って来て、私の今後について二人でじっくりと話し合ったのです。結局は私が説得される形で今回の結論に至りました。私は一人で暮らすことに何の迷いもありませんでしたが、それでは娘の気持が収まらなかったのでしょう。彼女の思いを理解している以上、それを無にすることはできません。家の処分やお墓の事、それと主人の一族のお許しをいただくのに2か月ほどを要しましたが、すべてが穏やかに解決して明日の旅立ちとなりました。
12月にお会いできたこと、本当に良かったと思っています。それは私にとってとても勇気のいることでしたけれど。先週『B&B』にお邪魔してマスターにお別れをしてきました。あなたのご住所はマスターに教えていただいたのよ。でも大丈夫。上手にお話ししましたから。あなたと私には学生の時に共通の知人がいて、その方に関わる情報や資料を6月に渡す約束になっていたというお話をしています。マスターに嘘をつくことになって心苦しいのですが、もし何か聞かれたら話を合わせておいてください。それからね、その時ついでという形であなたのことも詳しくお伺いすることができましたの。可愛らしい奥様とご子息の三人ですてきなご家庭を築かれ、そのお子様も最近ご結婚されたこと。希望通り音楽業界に就職され、10年後に別業界に転職された後にいろいろとご苦労されたこと、でも最後はあなたらしくきちんとけじめを付けられたこと。そして現在は悠々自適にお暮らしとのこと。それだけを聞ければ私には十分でした。それ以上を知る必要はございません。
そんな経緯がありまして私、この手紙を書くことを思い立ちましたの。あなたにもう一度お会いする代わりに。
私が突然目の前に現れたことであなたのお心をすこしでも乱すことがあったとしたら、それは私が意図したことではございませんが、どうかお許しください。
最後にもうひとつ、あなたに知っておいて欲しいことがあります。
あなたに再会してからのこの数か月間、私は自分の人生を静かに振り返る機会を得ました。そして改めて考えてみたのです。遠い昔、あなたという人に出会ったことの意味を。
そのことはとても有意義でたのしい時間でしたのよ。あなたとの思い出、そしてその何十倍、何百倍もある主人との思い出の欠片を一つ一つ丁寧に掘り起こし、自分の手のひらに乗せてから極細の刷毛で撫でるような、そんな愛おしい作業の繰り返しでした。
あなたと過ごしたたった6週間の記憶を、私は小さな箱の中に閉じ込めて生きてきました。でもその記憶は知らないうちに私の身体のどこかに住みついて、どれだけの歳月が流れてもすこしの輝きを失うことなく私の人生に彩りを与え続けてくれました。あなたとの出会いがあったからこそ、私は主人の愛を安心して受け入れることができたのだと思います。あなたに会えてよかった。会えたことを神様に感謝します。私はあなたとの思い出が詰まった箱をこれまで一度も開けることはしなかった。でも、その鍵を捨てることはとうとうできませんでしたの。
完