九品仏編(16)
あの日は会社の忘年会の帰りでした。『この後は男どもの話がしつこくなるだけだから』たしかそんな先輩のお言葉に便乗して2次会を抜け出し、行きつけのお店があると言う洋子さんにお供した訳です。忘年会シーズンということもあって『B&B』はほぼ満席状態でしたけど、マスターが無理やりカウンターに二席を作ってくれましたの。お店で洋子さんが大事にされているのが感じられて、部外者ながらちょっと誇らしくなったことを憶えています。そのカウンターの中にいて、アイスピックで一心不乱に氷を砕いていたのがあなたでした。目の前に座った新しいお客さんには目もくれずにね。背は高い方だけど少し猫背でお腹はエプロン越しに見てもペシャンコ、頬はこけて顔色もきっと青白かったわ。横向きになった胸の辺りも妙に薄っぺらで如何にも頼りのない、無理に褒めるとすれば真面目そうというのがあなたの最初の印象でした。『この子、あなたの後輩らしいわよ。ただし、文学部だって。ここでバイトしてもう3ヵ月過ぎてるのに、最近ようやくお客と話ができるようになったの。まだほんのちょっとだけどね、フフフフ』洋子さんが可笑しそうに教えてくれたわ。
今だから言えるけど、私はそんなあなたに少し興味を持ったのかもしれない。経済学部の学生の典型のような極めて合理的な考えの持ち主で、ある意味すごくわかり易い元カレとは正反対の、何を考えているのか皆目わからない心細げな文学青年のあなたにね。でもまさかあんなことになるとはまったく想像もしなかったわ。今風に言うなら、1ミリも。
私が3度目にお店に行った日のこと、憶えてる?私がマスターや千佳ちゃんとお話ししているのに、あなたはカウンターの隅の方でワイングラスを磨きながら何処か一点をジーっと見ていたわ。私たちの話にはまったく興味がないって風に。そして時々ね、ゆっくりととても長い瞬きをするの。そんな瞬きの人を見るのは初めてだったけど、それがね、私にはどこか物悲しそうに見えたの。後でそれはコンタクトレンズが乾燥して辛かっただけだというお話をあなたに聞いて、自分の勘違いがおかしくて一人で笑ってしまいましたけど。でもそんなあなたを見ていて、私の中に自分でも不思議な感情が生まれたのは事実でした。この人と絶対話をしてみたいという。
あなたと出会いそしてお別れするまでの時間はたった6週間という短いもの出したが、その事実が私の中に確かなそしてとても大きな足跡を残しました。憶えているかしら?日曜日、二人で同じ部屋にいるのに、1時間くらい長い時は2時間も3時間も口を利かないでいることがあったでしょう?あなたにとってその時間がどんな意味を持っていたのかを聞くことはできませんでしたが、私にはあの静謐な一瞬一瞬が本当に心地良くそして大切な時間でした。それがいつまでも続いてくれることを神様に祈ったくらい。別々なことをして別々なことを考えながら、でもあなたが同じ空間にいることは意識の中に厳然としてあった。不思議ね?話さないでいることが却って二人の距離を縮めているの。いつでも一人の世界に入ることができたし、またいつでも二人の世界に戻ることができた。男と女、いいえ、人と人がそんな関係になれるなんて最初信じられなかった。私には初めての経験だったから。あなたが創り出す時空の中で、私は完全に開放されたのです。そんな関係がたった1、2週間で築けたことに、私を運命的なものを感じたの。そして結局その関係が成立したのは、私の生涯であなただけでした。
1週間がとても待ち遠しかったわ。私が所属していた部署は石油関係だったから、あの頃の中東情勢もあってとても忙しかったのよ。それでもあなたを喜ばせたくて、金曜日の夜中にお料理を仕込んだりしました。カレーとかシチューとか、それからロールキャベツとか。あなたは『おいしい』って言葉を素直に出すことはしないけど、その代りに身体全体で上手に表現することができるのね。私にはそれが解かりました。一度だけ土曜日が待ちきれなくて、平日お店に寄ったことがあったわ。憶えてる?私は食事をしたらすぐに帰るつもりだったけど、あなたが『部屋に行きたい』オーラを顔いっぱいに出してきて、私もついついそれに負けたの。1時近くに息せき切って部屋に入ってきたあなたは、冷たい夜気を纏ったまま私に抱きついてきた。自分が新しいのを買ってきたからって、あなたはあれを全部使おうとしたのよ。普段は『僕、そんなことに全然興味がありません』みたいな顔をしているのにね。次の日の私、本当に大変でした。一日中ボーっとしていて洋子さんには叱られるし、それになんか上手に歩けないし。洋子さんってとっても勘のいい人なんだから。それでも、相手があなただとは絶対に思わなかったでしょうね。