透析時間用に、「コード ブルー」をレンタルして観ているけど、

血圧あがっちゃって、途中で止めたり飛ばしたり、早送りしてみている(^^;

そんな中、伏線として、小児の心臓移植の待機患者の話が出てくるのだが、

私も待機14年になるけど、心臓のそれとは比べ物にならないくらいに、

腎臓の待機は、透析(腹膜透析+血液透析)をしながら、毎日元気に生きている。

 

そういえば、移植者の頃にネットで知り合った、

拡張型心筋症の男性がおられましたが、彼も亡くなられています。

東大病院第一例目の生体肝移植を受けられた若林さんも、2005年に。

多分私が知らないだけで、当時関わっていた(リアルでもネットでも)移植者たちの

多くがすでに亡くなっているのかもしれない。

そんな中、私の生きる意味はなんだろう?

なんだかんだあっても、今を生きているという意味は?

 

そういえば、ぼんやりとそんなことを考えていたら、

思い出したことがあった。

私は献腎移植を待機している訳ですが、透析患者の方だったか、

健康なかつてのお友達だったかは、もう忘れたけど、

「私は人の死を待ってでも生きたいなんて、思わない!」っていわれたことがあってですね (^^;

(要するに誰かの死の上に成り立つ医療なんて!という話だったと記憶している)

その時は(工工工エエェェ(゚Д゚)ェェエエ工工工)って思ったけど、

今なら「価値観違うんだなぁ!!」でおしまいなんだけど。

さっき、コード ブルーの続きを見ていたら、ちょうど臓器提供のドナーの手術をするところに遭遇し、

息子の心臓移植を待っている(すでに時間がない)父@医者、の悲哀が、

痛いほどわかるわ〜ってなってました (^^;

 

私もそうやって、ドナーの方から腎臓を1つ頂いて、

こうして命を繋いで、まーくんも産み、の今な訳ですが、

ぐるぐると考えいたら、

私が移植を希望していること=誰かの死を待っていること

は、イコールではないんだよなぁ、って思ったのね。

不幸にして誰かが亡くなって、ドナーとなることをある意味ご本人が希望し、

ご家族も了承してくれてからの、善意の贈り物になる訳なんだけど、

(勝手な解釈をしている方もおられるようだけど、臓器提供意思表示カードを持っていても、

意思がないのに、勝手に持っていきませんから!!むしろご家族の反対にあったら、

ご本人が希望していても、提供できないと思います。)

だからこそ、の「臓器提供意思表示カード」なんだけどね〜。

NoもYesも、書き記して欲しいし、

家族で相談しておいてほしいです。

 

もしもの時は、こないに越したことはないけど、

何一つ話をしなかった時に、悩まれるのはご家族なのかもなぁ。って思うから。

 

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そして今晩も、私は透析をしています。

そして明日も、明後日も。