※ 崎の大が立ですが、出ないのであえて崎の字を使わせていただきます。

 

とうとう今日。

小崎先生を偲ぶ会、当日です。

今日も高速に乗って〜行って来ました!京王プラザホテル。

浩一先生からご挨拶、4人の方から小崎先生の思い出話しをいただき(私もお話しました)、

生い立ちから晩年までのスライド上映、岩本先生からのご挨拶、

最後に全員で写真撮影をして、お開きとなりました。

 

私と同様に、移植者から透析患者となったOさんと、移植者のままお元気な方4名(プラス奥様1名)の

テーブルにおりました。

Yさんご夫婦とKさんは、よく移植患者会にお越し下さり、何度かお会いしていたんですが、

他のお二人は、腎クリニックに通っておられましたが、すれ違う程度で、お話をしたことがなく、

初めておしゃべりさせていただいた感じでした。

他にも私が移植者当時にお世話になっていた薬剤師から薬科大(教授かな?)のTさんが、

移植者としておられました。

皆さん、長期生着ですごい!!31年、36年、38年、40年!!!∑(゚Д゚)

私が今から移植をしても、さすがに90歳までは、元気でいるかわからない・・・!

本当に、皆さんがお元気で何よりです♡

 

今日は小崎先生とお仕事でかかわられた先生方が中心となって、お越し下さっていましたが、

私がお世話になった先生も、何人かおられました。

リアルで腎クリニックでお世話になっているS先生も☆(彼は私が透析を初めた頃からです)

八王子医療センターの先生方やコーディネーター、元ドナーコーディネーターの方や

小崎先生とともに、草創期の移植医療を切り盛りされてきた先生方も、お越し下さっていました。

「4人の方からの、お言葉を・・・」といわれて、ソッコーで呼ばれるのかと思ったら、

まさかのトリでした・・・∑(゚Д゚)マジかー。

移植医療、腎臓病医療関係の重鎮がずらりとお揃いの目の前で、

患者代表、とおりまぁ〜す、みたいなノリでお話させていただきました。

他の皆さんとは切り口が違って、「患者目線の小崎先生」を、語ることが出来たかなぁ?!

 

正直、マイクがボーカルマイクっていうの?ベース弾きながらじゃないやつwで、原稿を見ながら話すのは、

とてもやりにくかったですが、ベースはなかったけど、人前でステージに何度も立っているおかげか、

なるべく顔をあげて、(チラッチラッとだったけど!)堂々とお話出来たのかも!と思いました( ̄ー+ ̄)

自分の体験を語る時も、たまにあるのと、ライブで演奏することも、

色々な物事が、どこでどう役に立つかなんて、わからんもんだなぁ!!と思ったのであります。

 

写真撮影の時、お隣になった先生から「感動しました!迫力があってよかったです!」といわれて恐縮です・・・。

誰だったんだろ(^^;(センターの主治医が更に向こう隣におられたので、今度聞いてみよう)

 

小崎先生を偲ぶ会、本当は、「こういった会は絶対やるな!」と、浩一先生はきつく言われていたとおっしゃっておられましたが、

ぶっちゃけ私もそう伺っておりまして(^^;(私は献体をするから、葬儀なんかあんなもんやらなくていい!)って、

よくおっしゃっていたのですよ・・・(寂しい事言わないでくださいよ〜見送らせて下さい!!)なんて話していたけども。

移植者のKさんから電話があって、私が主催してやってくれないか?とのお話をいただき、

さすがに私が勝手にやる訳にはいかないので、浩一先生に相談し、センターの岩本先生と話しをしながら、

今日の会の開催につながりました。

「私は電話をしただけなのに〜本当に開催してくれて嬉しい!!」とKさんから言われて、

連絡を取るのがとても大変だったけど(亡くなられていた方が多かったもので)、今日無事に開催の運びとなって、

私もとっても嬉しいです(T^T)

 

という訳で、私の原稿をご紹介します。(5分で読めます)

長文だけど、よろしければご覧下さい。

 

* * * * * *

はじめに、浩一先生、岩本先生、小崎先生を偲ぶ会を開催してくださり、ありがとうございます。 

 僭越ではございますが、ご指名をいただきましたので、一言ご挨拶させていただきたいと思います。

 小崎先生の訃報を受けたあの日から、あっという間に1年以上が経過しました。いまだに腎クリニックの外来の扉をあけると、小崎先生がおられるのではないか?と勘違いしてしまいそうになります。

 何か問題があった時には、「こんな時、小崎先生ならどうされるだろうか?」と、思いながらも、色々な問題はクリアしつつ、お陰様で元気に生きております。

 

 私は1992年3月1日に、八王子医療センターで献腎移植を受けました。今は亡き玉置コーディネーターから電話がかかってきた、あの日から26年間、小崎正巳先生、浩一先生にご縁が出来たことで、私の人生は大きく転換しました。

 小崎先生が1996年に定年退職され名誉教授になられた後、日野高幡クリニックや、府中腎クリニックで外来を持たれてからも、月に二回お世話になっておりました。

 私が移植者でいられたのは、2007年までの15年間でした。その間に、就職をし、結婚をし、出産をし、何度か拒絶反応はあったものの、健康な人と変わらない生活をし、やりたいと思っていた事が、その間に全部出来ました。

 私の結婚式の時には、小崎先生に主賓でお越しいただき、スピーチをお願いし、浩一先生とお二人でご出席していただきました。

子どもが生まれて、育児疲れから、だんだんと腎機能が悪くなっていきました。移植者だった後半の4~5年は、腎機能低下との戦いでした。

透析にもどらないようにと、ありとあらゆる治療を考えて下さり、もうダメかもと落ち込む私に、小崎先生は、いつも励まして下さいました。

 本来なら透析に戻ってしまえば、お世話になることもなくなるのかなと思いましたが、透析に戻り、CAPDも併用になってからも、当たり前のように通い続けていました。

 いつも外来では、検査データに変化があれば、何ヶ月にも渡りさかのぼって、確認してくださいました。検査のお話が終わると、移植の現状についてお話してくださったり、法案を通すために議員会館を回った時のお話や、なかなか献腎移植が広まっていかないこと等、様々な思いをお話してくださいました。

移植の話で盛り上がりすぎて、結構な時間が過ぎていたりしたことは、今は宝の思い出です。そんな、月二回の外来が、いつまでも続くと思っていました。

 

 思えば何度も、私は小崎先生に命を救っていただきました。

2006年には、副甲状腺機能亢進症の治療を受けるため、東京女子医大の内分泌外科外来の教授を紹介してくださり、2012年には、乳がんを発見してくださり、東京医科大学病院の乳腺科の教授につないでいただき、驚異的なスピードで、外来や手術を受けることが出来ました。その頃小崎先生もがんの術後だったのもあり「久原さんとは、がん友ですね!」と茶目っ気たっぷりのあの優しい笑顔を見せて下さいました。

 

 常に患者さんのことを考えておられた小崎先生。

移植患者会やまゆり会の移植勉強会や食事会に、快く、何度もお越しくださいました。患者さんとお話されるのがお好きで、食事会ではいつも、皆さんの輪の中心におられました。会報にも原稿を寄稿してくださったりと、本当に沢山お世話になりました。

 私が透析に戻り、数年は続けていたやまゆり会ですが、後継者がおらず、会を解散した時には、とても残念だとおっしゃっておられました。

 

 何年か前の献腎移植の更新用紙に、「早く移植が出来ますように」と一筆書いてくださったこともありました。

私がただ一つ残念なことは、「再移植が出来ました」と、小崎先生がお元気なうちに、ご報告が出来なかったことです。

 ご縁があってまた、移植者に戻れた時には、また患者会を設立し、小崎先生に教えていただいた全てを、皆さんにお伝えしたり、移植者として、移植医療の啓蒙のための活動もしていきたいです。

 大変つたないお話ではございますが、本日のご挨拶とさせていただきます。有り難うございました。ビューティープラスすごいなw

浩一先生のお顔を見たら、こみ上げるものがあって、泣くのを我慢していて、笑顔が作れなかったわ〜(T^T)