認識における美術史-20 アルタミラ/ラスコー洞窟壁画及び萬鐵五郎作品における写実について | 岩渕祐一鎌倉日記のブログ

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認識における美術史‐20

アルタミラ/ラスコー洞窟壁画及び萬鐵五郎作品の原時間ににおける写(虚)実について

 

我々の認識行為が行われ継続される、この現象界において基礎根本をなす三つの法則があることを「認識における美術史‐19」までに考察し、仮定した。

1複合空間構造、2二重否定構造、3超対称性であるが、いずれの法則も認識における初端の現れ‐異相空間及び光り現象を成立される基礎であるとともに、自己意識の往還運動にも深く関与していることを考察し、明らかにしてきた。

また「認識における美術史‐8」において、その自己意識の往還運動の参入による美術、美術表現への、他所的異相空間と他者的光り現象の現れ方には、(1)疑似的な現れ方、(2)表現されている事柄、様式に沿った現れ方、(3)近代個性以降における自覚的暗喩表現としての現れ方と、三種類があることをも考察した。

この「認識における美術史‐8」において、縄文火焔土器を考察した際、この火焔土器には、火に譬えられる生成と変移のための異相空間があり、その達成への呪術(祈り)が、器の形として形成されていると考察したが、(1)及び(2)の表現されている事柄、様式に沿った現れと考察している。

今回考察するアルタミラ/ラスコー洞窟壁画及び萬鐵五郎作品においては、自己意識の往還運動と写実、それは全くの脳内画像という意味において※1写(虚)実像との関係性を考察し、洞窟壁画を(日本)近代個性による萬鐵五郎作品と比較しつつ、認識における、その在り方の近代的な変容を明らかにしてみたい。

まず、アルタミラ/ラスコー洞窟壁画であるが、赤土や植物性顔料などで描かれた牛、馬、いのししなどの動物は、この洞窟壁画の屈曲に沿いつつ、微妙に膨らみたわみ、のびあがりデフォルメされながら、その姿を表し、その表現のゆえに異相空間化していることに、注目しなければならないだろう。

そこには狩り成功の対象として、絶対実現への祈り‐呪術がこめられ、通常の写実というより、獲物である対象を引き寄せ、自分の目前に現したいという、強い意識空間実現としての写実像が、意念を込めて執拗に描かれ、引かれた線描や色調に現されていると考えられる。

自己意識の往還運動として考察するならば、縄文火炎土器などと同様、自己自我のまま、対象空間に意識が投影されていると考えられる。

洞窟壁画を見ればわかる通り、通常の見た目というよりは、自己(自我)意識によって捉えられた空間-像本位の有様、描かれた行為と意識に沿い、強くデフォルメされ、しかし、描いた主体にとって、その像こそが実‐本体であるような写実なのである。

近代以降の個性を獲得した我々から観た場合、主目的としては、そのような意図ではないのだが、迫真の「藝術」であるような感動を覚える。獲物の対象である動物たちを美しく飾る。洞窟壁画は当時でも、そのような美という認識の状態でもある写実要素を含むのではないだろうか。

しかし、この写実像は自己意識の本(身)体に、明瞭に内部と自覚されたイマジネールの像というよりは、自己自我と獲物の動物たちを、直に結びつける、※2内外未分化のイマジネール像なのであろう。

ここで、近代個性としての藝術作家(画家)である萬鐵五郎作品「雲と裸婦」1921-22平塚市美術館蔵を考察することで、時代と地域をまたぐ認識における共通項と、それゆえ、認識における近代的変異を明らかにしてゆきたい。

縦長の画面一杯中央に、足、胴、腕、胸とそれぞれが、黒い隈取り線によってデフォルメさえ、ヌードでポーズをとる女性が、台地あるいは草上に伸びやかに立っている。

人体各部のバランスは、書空間を思わせるようだ。

画面右より勢いよく黒い線で隈取りされ、簡略化された筆致による白雲が、深い青空空間をバックに、裸婦の背後に湧きあがり、描かれている。

むろん実景ではないのだが、強いデフォルメと黒の境界線によって、観る者に迫まる表現の在り方は、洞窟壁画に共通であり、萬鐵五郎にとっての、真の本体‐対象をとらえるべく、の写実‐異相空間を感じ取ることができるだろう。

しかし、ここで注目したい描写は、深い青空をバックとし、まるで裸婦のまとう「天の羽衣」のように裸婦の腹を包む「白雲」であろうと、私には感じられる。

この白雲は、萬鐵五郎の自己自我が投影された裸婦とは違う。

描写の主対象目的である「人体」-裸婦から抜け出し、さらに想像上の羽衣的創作を付け加え、作品表現を裸婦であるとともに、「裸婦で非ざる自在性」を獲得したものとして、昇華されていると考えられる。

ここにアルタミラ/ラスコー洞窟壁画にはない、イマジネールの自在性がある。

内外が未分化ではない、内のイマジネールを通りつつ、外へと解放される空間があるだろう。

それは近代個性として自覚された藝術作家という「内面」に育った、独立個性のイマジネールなのだと考えられる。

自己意識の往還運動として考えるならば、自己自我を抜け出し、「白雲‐天の羽衣」の自在性に投影された他所的、他者的自己の獲得による創作なのだと考えていいだろう。

※3同時期(大正時代)の作家、岸田劉生の自己自我の往還運動の強い動揺性を伴った作風「野童女」などにも自己自我と他者的自己投影の入り混じった作品がある。

また、坂本繁二郎「牛」「馬」作品などは、さらに他者的、他所的自己への投影へと、その作風を広げてゆくようである。しかし、これらは、まだ意識上に意図された変革ではなく、表現上の工夫としての変革と考えられるのだが、このイマジネールの内面性の獲得の上で、さらに他所的、他者的自己への投影変化を遂げる(日本)近代個性と作品のありかたは、遠く「女房奉書」などの「深み」を持った「書空間」から引き継がれているのだろうが、この空間から、今日の意識改革※4「アブセンスの美術」領域が、一つ生まれたことになるではないだろうか。

 

 

※1

これ以降、この考察文章では写実像の意味は、写(虚)実像である。

 

※2

もっともこれは、我々から観ての考察-判断で、可否の問題ではないのだろう。むしろ、現代よりも更に広大な宇宙を意識していたということもあるのではないだろうか

 

 

※3

「鎌倉日記Ⅱ」観中忘あり‐神奈川県立近代美術館・葉山館の項にて、藤島武二作品「花篭」1918年をこちらに迫ってくる女性像の写実と書いた。この作品も同様と解釈できる。

 

※4

欧米には欧米の物質性の幻影から抜け出す「アブセンスの美術」領域があり以前、考察、指摘している。

 

 

  あとがき

今回は洞窟壁画における写実の考察から、近代における、その重要なイマジネールの獲得と自己意識の往還運動の変化を考察した。この「認識における美術史‐20」を総論とし、一旦、改訂増補三版を検討中である。

なお以前、私は木下長宏先生から作家論をいただいた際、「書く」というよりは、「書かれる」。用いるというよりは「用いられる」、この境地を求めて、と評していただいた。その後、私は私の越境認識論「認識における美術史」を創り上げ、自己意識の往還運動の在り方を考察し、また外→内→(内)外と移行する近代イマジネールの在り方を説きつつ、これ「境地」を具体的表現工程へと明らかにした。

長年の課題を、その理論と実践個展とともに詳らかにすることができ、ほんの入り口とはいえ、このような「入り口」もあると指摘することができ、感無量である。

なお、このことは私一人では到底できることではなく、長く「鎌きん」Ⅿ先生にご指導いただいた結果である。ここに改めて深く御礼申し上げます。

 

                   

                      2024年2月14日   

                      藝術作家/越境哲学者 岩渕祐一