福島旅行から帰ったので、改めて西三河旅行旅行記を続けます。安城の「本証寺三河一向一揆の名勝」を経て次の目的地は知立市の八つ橋です。伊勢物の第九段のには「八橋(やつはし)」の通称で知られる場面のお話です。 失恋の痛手から都を離れ、東国への旅路にある主人公(業平)と友人ら一行は、三河国(みかわのくに)の名所・八橋にさしかかります。この地では水ゆく河が蜘蛛手になり、橋が八つ差し渡されていたため八橋と呼ばれていました。この水景の名勝でカキツバタ(燕子花・杜若))の群生を目にした彼らは感興を催し、軽食を摂りながら歌を詠んだのです。

業平一行は都を下って八つ橋に至って杜若をみる

唐衣着つつなれにしつましあればはるばる来ぬる旅をしぞ思ふ

文節の最初を「かきつばた」で織り込んだ和歌で主人公が愛する人を都に残して東下りする心情を艶やかに咲いた杜若に託しています。美しさと艶やかさとモノの憐れは日本人の心琴に響いたので八つ橋は日本文化のテーマになりました。江戸時代初頭光琳は杜若屏風(国宝)を描き、手文庫も杜若と「八つ橋」をデザインしました。

尾方光琳の杜若図屏風は八つ橋を観るに際的な木製橋が懸けられています(国宝)

光琳の手文庫八つ橋は螺鈿細工の杜若の田を黒々とした橋が巡っています(国宝)

又歌舞伎では花魁の八つ橋の刃傷事件を扱っています。京都の和菓子舗も銘菓の八つ橋を商っています。

歌舞伎の八つ橋では田舎者が花魁の八つ橋の美しさに溺れてしまい刃傷に及びます

京都の銘菓八つ橋も伊勢物語を素材にした和菓子で年々意匠を変えて新作を発表しています

史跡「八つ橋」は矢作川」の中流域の低湿地にありました。矢作川の河岸段丘に無量壽寺と日吉山王神社があります。秀吉が幼名を「日吉丸」と云い「矢作橋で蜂須賀小録に遭遇して出世街道を進んだ話を思い出しました。

矢作橋で日吉丸は蜂須賀小録に遭遇して武士になる

無量壽寺と日吉山王神社は矢作川の河岸段丘の上部にあって雑木林や墓を下ると、菖蒲田が在りました。知立の杜若も菖蒲も5月が盛りだった様です。6月初旬は既に花期も過ぎてしまったのでしょうが、既に花は終わって、株は老いさらばえていました。加えて八つ橋は鉄筋コンクリート造りで風情は全くありません。僅かに在原業平の銅像がたっていますが、建って居る場所が悪いのです、トイレの脇です。グランドデザインの感覚無神経が苛立たしいのでした。

これが日吉山王神社です。右奥が無量寿寺で背後の雑木林を下ると菖蒲田があります

無量寿寺の境内には「八つ橋史跡保存館」があって、伊勢物語等の文化史を展示していました

八つ橋の菖蒲田は再生療養中でした

菖蒲は手入れをすれば立派な花を咲かせるでしょうが、鉄筋コンクリートの橋は情けない

トイレの脇に立てられた在原業平の銅像グランドデザインが出来ていません

この後私達は知立神社で花菖蒲を見ました。此方は明治神宮の花菖蒲を分けて貰って、庭園に菖蒲田に植えたモノですから、良く手入れされていました、明日に紹介します。       【了】