知多の吉良の民宿に泊まって朝一番に大方寺古墳に登って次には岩屋寺に向かしました。観光案内には次の様に書かれていました。

岩屋寺は尾張高野山宗の総本山で山号は「大慈山」で岩屋観音」と呼ばれて地域の信仰を集めています。本尊は「千手観音」で知多西国観音霊場の第一番札所です。伝承によれば、霊亀元年(715年)元正天皇の勅願所として、行基菩薩によって創建されたとされ、かつては千眼光寺とも号したという。大同3年(808年)に弘法大師空海がこの寺の「奥之院」を開いたともされる。本堂はたびたび火災で焼失し、文化年間(1800年代前半)に尾張藩主・徳川斉朝の依頼により、天台宗の密教僧であった壕湖律師によって再興されました。

寺所は「大本堂」、「奥之院」の二ヶ寺に加え、裏山の山頂にある空海の修行大師大仏と不動明王等の五仏の霊所からなる。裏山の大師ヶ嶽の参道には、豪湖律師が開眼したと伝える石仏群の八十八大師像と五百羅漢像があり、これにより地元では空海への大師信仰が興ったとされる。昭和26年(1951年)に天台宗から独立して「尾張高野山宗」を称してその総本山となりました。

 

岩屋寺に張られていた知多33霊場巡りのポスター岩屋寺が一番で尾張高野山宗の総本山の誇りが感じられます

知多半島の平野部(尾張)は木曽川三川や三河三川の沖積平野(縄文海進期に出来た)ですが、南知多は100万年ほど前からの土地の隆起と氷期・間氷期の海面変動によって形成されたもので、やや固結した地層で出来たのでしょうこの丘陵部を「師崎層群」と呼んでいます。岩屋寺の岩石はその「師崎層群」で比較的脆い岩石で構成されています。雰囲気は空海が籠った土佐室戸岬にあるパワースポット「御厨人窟(みくろど)」に似ていますが、岩屋の岩は古くて脆い状態です。

大悲山岩屋寺の境内図下段の観音堂(本堂)と山上の奥の院(三重塔)で構成されています

この建物は岩屋寺の経蔵です。この右側が石段で奥の院に続いています。その右側脆い岩の段級に五百羅漢が並んでいます

これは岩屋寺本堂(観音堂)前に並んだ33霊場巡りの「御砂場」に並んだ33漢音石仏

五百羅漢信仰は総じて江戸時代に盛んになります目黒の五百羅漢寺や川越喜多院の五百羅漢は江戸時代の飢饉や大火で亡くなった人の霊を癒す目的で建立されました。江戸時代中期から盛んになり、流行するにしたがい、表情が豊かになって、庶民的な明るさを漂わせ、大勢の人々から信仰されるようになっていきます。 俗にいう「死者に会える」という信仰と、五百羅漢の庶民性と結びつき、ひたすらに造像することに功徳を願ったものと思われます。此処岩屋寺の五百羅漢も江戸時代中期の造像でしょう。目黒の五百羅漢寺や川越喜多院の羅漢像に酷似した意匠の羅漢像も確認出来ました。でも有名羅漢との違いは岩屋寺の五百羅漢は雨晒しの巌谷の中腹に祀られているのです。屹度江戸時代尾張徳川家の寄進で奥の院を整備して石段を築いたのでしょう。序に岩屋の中腹も石段状に削ったのでしょう。その石段に雛祭り状に五百羅漢を置いて祀ってみました。その結果五百羅漢の脇には山野草(青い水草やピンクの「カタバミ」が咲きました。時には上の段の岩が崩れて落石五百羅漢の頭を直撃して飛ばさる災難も発生します。不運な五百羅漢の頭は雛段に置かれて首無しになった羅漢はそのまま飾られています。運の悪さを嘆く事も無く自然(風化)に任せています。その姿が美しく、空海の教えと思うのでした。

岩屋寺奥の院に向かう石段の右(東)に並んだ五百羅漢石仏群

岩屋寺奥の院に向かう石段の右(東)に並んだ五百羅漢石仏群には信者が帽子とユダレ懸けを寄進していました、

着せるのも大変だったことでしょう。

これは五百羅漢のテーマ「心には仏が在る/仏心我に在り」の意匠です。

首の無い羅漢が目立つ一角

首が傾いている羅漢、屹度首が落石で吹き飛んでしまい傾いて取り付けられたのでしょう

「仏心我に在り」の羅漢の脇には不運にも首が落ちてしまった羅漢が隠れていました

ピンクのカタバミの花に囲まれて幸運な羅漢

石段の右(東)に並んだ五百羅漢奥の院への道の踊り場迄行って戻る事にしました。

奥の院迄は300m案内図では三重塔や弘法大師像が祀られているそうですが今日は八つ橋(知立)迄回る予定ですので、此処で断念して車に戻る事にしました。         【了】