6月4日旅行一泊目の宿は吉良温泉にある民宿「尾崎」でした。私は総じて民宿を選んで宿泊します。民宿を選ぶ根拠は第一にコスパが良い事と、予約時に食べたい食材を伝えておけば用意してくれる事そして、地域に根差して生活している人の情報を取得出来る事で、翌日の旅程についても相談出来る事です。6月4日の夕食時も蟹を食べ乍ら友人が南知多の名物「大アサリ」を話題にすると6月5日の朝食に「大アサリ」を食卓に出してくれましたし、近くに「大方寺古墳/100mの前方後円墳」がある事を教えてくれました。吉良温泉は名古屋圏の海水浴場として人気だった様で、大きなホテルが海辺に面した岡の中腹に並んで建っていました。民宿尾崎は大きなホテルの日陰にひっそりと建って居る民宿でした、吉良と云えば「吉良の仁吉/清水次郎長「荒神山の決闘/尾崎士郎原作」です、民宿尾崎に聞いたところ作家の尾崎士郎とは無関係で当地吉良町には尾崎姓が多いそうでした。帰宅してこのブログをアップしながら、吉良の仁吉の墓を詣ででいない事に気づきました。
吉良の仁吉(任京伝/尾崎士郎)
吉良町歴史民俗資料館、吉良饗庭塩の里に近い農振道路は、
椰子の木が街路樹に植えられていて吉良ワイキキビーチの雰囲気充分です
吉良ワイキキビーチの駐車場バーベキュー禁止やビーチの遊び方の注意書きが多くありました。
吉良ワイキキビーチの遊歩道
吉良ワイキキビーチのサンドバレーコート
吉良ワイキキビーチに近い「民宿尾崎」庭はバーべキュウとシャワー施設が並んでいました。
「民宿尾崎」の舟盛の刺身
「民宿尾崎」の夕食は海の幸尽くし
「民宿尾崎」では朝食に知多名物「大アサリ」対岸の「伊勢桑名の蛤」に対抗します。
吉良宮崎地区は海水浴場と漁港がありました。6月5日の早朝朝食前に宮崎地区を観て回りました。海辺の道路には防潮提を兼ねた道路壁に地元萩小学校の生徒が描いたペンキ絵が並んでいました。祭りに海の幸に仏像等子供心に「故郷の自慢と愛着」が描かれて愉しみました。
吉良ワイキキビーチの駐車場の防潮提に描かれたペンキ絵壁の向こうが道路です
吉良ワイキキビーチの駐車場の道路側の壁面に描かれた祭りの絵
吉良ワイキキビーチの駐車場の道路側に描かれた大きな蟹の絵
吉良ワイキキビーチの隣漁港の景色斜面右端が民宿尾崎です。
吉良ワイキキビーチの隣の鳥羽漁港右端奥が魚市場です
海辺を観たので背後の丘に登る事にしました。遠目に観ても古風なお寺が在ったのです。露地の入口には「吉良観音霊場3番」と記されていましたが、お寺の名は案内されていません。唯石段の踊り場には「此処は海上5mです、もっと上に避難しましょう!」案内されています。本堂前の境内迄登ると「此処は海上、10mです」記されて更にお寺の裏山に避難する事を導いています。境内には吉良観音霊場の石仏が並んでいて本堂前東側に「忠魂碑」が建って居ます。確認すると「太平洋戦争末期」に東南アジアで戦死した兵士の慰霊塔でした、今吉良町はバブルが破裂して、衰退していましたが、東南アジアの成長によって観光客が急増して息を吹き返す気配です。
吉良町宮崎地区の露地の奥に建つ寺石段の踊り場に「津波危ないここは海上5mもっと上に!」誘導していました。
寺の本堂前には黄色い看板に此処は海上10mと案内されていました。
境内の様子右側は吉良観音霊場の石仏群この寺は「地僧坊」で津波の際はもっと上「右」に避難するよう導いていました
本堂前の忠魂碑
忠魂碑には戦死された兵隊さんの俗名と戒名と没年と年齢と戦地が刻まれていました(合掌)
境内の井東側奥には巨大な壺(常滑焼)が置かれていました。私は勝手に英霊の遺骨が拾えなかったので、戦地の石を拾って戻って遺骨と思って納めたモノと推測しました。私の叔父もフィリッピンからの退却途上で川に水没してしまった、聞かされていました。母はフィリッピンに行って小石を拾って戻り納骨堂に納めました. 【了】