東海道53次御油の松並木を観て隣の中山道赤坂宿にむかいました。両宿の距離はたった600mです、赤坂宿の辻(立場)には赤坂宿の案内と江戸時代にお触書が掲示されていました。

赤坂宿の辻(東海道と中山道んオ分岐点)の辻にはお触書を展示した立場になっていて

勤勉に働く事放火を厳重に禁止した事が判ります

立場の向かいには「赤坂宿」の祭りを案内していました。(右が中山道手前が東海道)

上の家屋(旅籠屋)の東海道沿い50メートル先(京都寄り)に豊橋市指定文化財「大橋屋」が展示されていました。爺さん5人が敷居を跨ぐとボランタリーの親爺3人が喜んで案内をしてくれました。

これが旅籠の「大橋屋」です大橋屋は旧屋号を鯉屋といい、間口9間の大旅籠でした。

「大橋屋」の美しい梁組

「大橋屋」の東面

「大橋屋」の東側の建屋は撤去され煉瓦タイル張で部屋割りを説明してありました。

左端(南側)は縁側で北側は廊下で便所が3区画ありました。

安藤広重の赤坂宿図、手前のソテツと石灯篭を再現しています。(上の写真)

上の広重の浮世絵では、左の客室に旅人が入って女将の挨拶を受けています。右の小部屋では女性が化粧をしています。この女が飯盛り女で、街道の宿場で旅行者の給仕,雑用などに当たるとともに夜になると売春を行なっていた私娼でした。御油宿と赤坂宿は近隣であったこから、双方の宿場共に競って飯盛り女を抱えて客引きに競ったのでしょう。東海道中膝栗毛では弥次喜多は御油の止め女に次の様な確認をしていますまず「宿が綺麗かどうか」を尋ね、客引きは「建て直した新宅」と答えています。次に座敷が幾間あるか、風呂はいくつあるか、女は何人いるかなどを尋ね、さらに女の器量まで尋ねています。客引きは勿論、「女はとても美しい」と答えていますが、宿を選ぶ決め手とは良い女の接待を受けたかったのでしょう。江戸時代も現代も世の男の欲求は変わらないのです。

広重の御油宿の図道路の真ん中で止め女が旅人を強引に自分が働く旅籠に引き込んでいます

上図のアップ、歌舞伎町の暴力バーの様です

私の住む戸塚宿は東海道の5番目の宿場町で隣は6番目の藤沢宿です。藤沢宿には「小松屋」と呼ぶ旅籠が在って飯盛り女を抱えていました。「小松屋」の屋号は「小松石/湯河原産の石/墓石になった」でした。小松屋は藤沢本町の永勝寺に「飯盛り女」の墓があります。案内板には小松屋は飯盛り女を家族同然に扱った仁術の人として紹介されていますが、本業の「墓石商」としての性分が出たものでしょう。

藤沢本町にある永勝寺の飯盛り女の墓地(小松屋の墓地内)

赤坂宿の立場交差点には「紅里」交差点の掲示がされていました。「紅里」は艶っぽい名です。江戸時代には飯盛り女がいてその後も「遊里」として知られていたのかも知れません。飯盛り女は総じて貧農の娘で「病気で死んでも連絡不要です、見受け金200文」で赤坂宿の旅籠屋に引き取られていたそうです。御油や赤坂吉田がなけりゃ、親に勘当うけやせぬ」とか、「御油や赤坂吉田がなくば、何のよしみで江戸通い」とかの流行り歌を残すほど繁盛していたようです。可哀想なのは娘さんです。旅籠で旅人相手に飯盛りを初め下働きすればよいと云い聞かされて家を出ても実際は夜になると旅人相手に売春を強要されたのでした。親孝行を教えられ、浄土思想が定着していた時代の生娘には岡場女の様な売春は耐えられなかったのでしょう。淵に身投げしたのでした。赤坂宿の東林寺(浄土宗)にはそんな不幸な娘の墓が5基祀られている、というので回ってみました。

 

赤坂宿の東林寺

赤坂宿の東林寺に祀られた飯盛り少女の墓

赤坂宿の東林寺の5基の墓の一番左の墓石(戒名は美しい少女で淵に身を投げたのでしょう。信女の戒名でした。

此方は美しい飯盛り女のリーダーだったのでしょう

藤沢本町の永勝寺の飯盛り女の墓は一基の墓石に複数の飯盛り女の俗名がきざまれていました、他方赤坂宿東林寺の飯盛り女の墓は戒名があって、一基ずつ分かれていました。赤坂宿の方が丁寧で心が籠っている様に思えました。       【了】