昨日(5月11日)は慶応大学日吉キャンパスで私が属する「慶応大学日本文化研究会」と「大学」が共同主催する春季講演会に参加しました。講師は國學院大學の笹生衛教授(国学院大学博物館館長)でした。国学院大学と慶応大学は折口信夫先生が教鞭をとっていたので、距離が無いのです。会場は日吉の4号棟23番教室で聴講生は肝腎の学生こそ少なかったものの日文研会員が多く熱気が在りました。私達夫婦(日文研会員)は学食でランチを終え1時半には教室に入りました。日吉キャンバスの銀杏並木の緑が濃く5月の爽やかな風が梢を揺らして吹きぬけていました。

慶応大学日吉キャンバスの銀杏並木

学生食堂でカレーを食べて午後1時半の講演会に参加しました

講演会開始前の事務局と笹生教授の打ち合わせ

私は2年前の桜の季節に松江市から出雲を周遊しました。「八雲立つ風土記の丘資料館」から八雲温泉(熊野神社門前)を経て美保神社から出雲大社に行きました。その旅で自分の目で見て湧いた疑問や記憶を読み解く事が出来て嬉しかったのでこのブログにアップしながら整理したいと思います。

松江市の東にある熊野神社(出雲一宮)出雲の一番は出雲大社だと思っていたので疑問でした

熊野神社の境内に祀られていた「讃火殿」火を起こす社、火を起した「社」で檜の皮と茅でできていました。

熊野神社で祀られている神はスサノウ尊と「クシナダヒメ」で神社の門前には意宇川(おうがわ)が流れ朱塗りの八雲橋)が懸っていました。讃火殿は火を起こした神社と水の神を祀った社の相反する側面があったのです。古事記ではスサノウ尊は東征に際して火難に遭遇して鼠に助けられますし、「クシナダヒメ」は「櫛」の霊験で何度もスサノウ尊八十の親「伊邪那岐」の窮地を救います。多分火の神は縄文時代の神で水の神は弥生時代の神なのでしょう。水の神「クシナダヒメ」が火の神を抱擁する事で平和裏に国家を導いたのでしょう。セミナーの最後に自由な質疑応答がありまあした、「出雲大社と熊野神社とは火の起源で争いが絶えないようですが,如何におもいますか?」

これは「出雲風土記の丘」に近い神魂神社(かもすじんじゃ)です最も古い出雲大社造りの神殿で国宝です

『出雲国風土記』によると熊野大神は「イザナキのまな子」であると記されています。

イザナミノミコトと共に国生みをおこなった神で、亡くなったイザナミに会いに黄泉国へ向かった神話がよく知られています。
「まな子」というのは真愛子、つまり親から心より愛された子という意味です。まり、熊野大神はイザナキに愛された御子神だとされているのです。それは古事記の英雄スサノウ尊に違いありません。出雲大社は大国主大神が主祭神です。デモ国家統一の視点で視れば重要なのは第一にスサノウ尊でしょう。スサノウ尊が重要なのは火の神だからです。鉄器(玉鋼を作るにも火力が重要)

も火が無ければ出来ませんでした。

笹生衛教授の講義は最初に出雲大社の地理的条件でした。日本海を隔てて向いが「新羅国」で「国引き神話」の相手先であった事、背後の小高い山は「八雲山」で山から二本の川が流れだし(東が吉野川、西はスサ川出雲大社の大鳥居の辺りで合流していたそうです(河川の合流点には多く神社を祀っています(京都の下鴨神社や吉野の水分神社)、稲作に最も重要なのは水ですから、豊作祈願の為に古代の神事は出雲大社門前の河川敷で営なまれたのでしょう。伊勢神宮も五十鈴川と宮川が朝熊ヶ岳(あさまがたけ)が流れ出しています

出雲大社の鳥居の辺りで吉野川スサノウ川が合流していてここで始まった神社祭祀が始まりと説明されました

熊野大神は「イザナキのまな子」であるのと同様に大国主命の子供は沢山いました宗像三女伸を初め(須佐之男命の娘という説も)

諏訪大社の祭神の「タケミナカタ」も「大国主命」の子供です。地方の国神は「大国主命」の皇子神である事で受け入れらたのでしょう。出雲の「二社詣で」で著名な美保神社は恵比須神が祭神ですが、こちらは「祟り神」なのでしょう。

美保神社は出雲の祟り神でしょう

           【了】