4月2日は内子に宿泊して4月3日は宇和島に宿泊する計画でした。「大洲街道/松山→大洲」と「宇和島街道」の結節点にある町が大洲です。大洲は東に四国山脈が在って土佐国にも行けます。歴史的にはやや鄙びた立地ながらも交通の要衝と言える場所にあった。伊予宇都宮氏が創建した当初は、肘川と粂川の合流点にある「地蔵ヶ岳」に因んで室町時代は「地蔵ヶ岳城」と呼ばれました

江戸時代初期に藤堂高虎によって大規模な修復が為され近世城郭としての風格が完成し城下町は繁栄しました。大洲城は、明治21年(1888)、惜しくも天守が取り壊されましたが、4棟の櫓は解体をまぬがれ、いずれも国の重要文化財に指定されています。4層4階の天守は、明治期の古写真や天守雛形と呼ばれる江戸期の木組模型などの史料をもとに平成16年(2004)に木造復元されました。木造復元するに際して市民の寄付で賄われました。現在は天守閣で宿泊する事も可能だそうです(貸し切り一泊百万円)結婚式と被露宴等で使用されているようで、そんなポスターが掲載されていました。

これが現在の大洲城です。肱川の屈折点で久米川との合流点にあります

強い雨が降る中大洲城に登りました。桜が濡れて一段と美しさが匂うばかりでした

砥部も松山も逸材を輩出していますが、大洲には中江藤樹がいまあした。日本陽明学の始祖。近江国高島郡で産まれましたが9歳の頃伊予国に来て、成長して大洲藩家臣となり、独学で朱子学を学んだ。27歳のとき、郷里に住む母への孝養と自身の持病とを理由に、藩士辞職を願い出るが許可されず、脱藩して近江に帰り、酒の小売業で生計を立てながら学問に専念したそうです。大洲城天守閣の下には城下町を見下ろす位置に中江藤樹の銅像が天守を観る様に建っていました。

中江藤樹像背後は大洲の市街地

昔NHKのTVで「肱川嵐」を観た記憶があります。地蔵ヶ嶽の山上に沸いた雲が濃い霧になって肘側に沿って龍の様に下って大洲城を霧で包んでしまいました。夏には鵜飼が楽しめる水郷であり。伊予の小京都と呼ばれているそうです。外国人にも人気だあそうです。お花はん通リが在って古い文化を大切にする懐かしい人間味溢れた町の表情です。

肱川沿いにある鵜飼船右側の石垣は水害防止の為

肱川嵐の風景

美しい人物を育んだのは美し故郷の山河だったのでしょう。        【了】