2月23日に「沖縄平和祈念資料館」を見学して次の目的地「姫百合の塔資料館」に向かいました。沖縄の観光客が必ず訪れる観光地は第一に首里城第二に「美ら海水族館」そして姫百合の塔資料館」でしょう。私が生まれたのは戦後の1946年で大学を卒業したのが1960年代の末でした。大学は連日学生運動で大揺れで授業もままなりませんでした。私が入学していた慶応義塾大学では医学部が米軍に協力して「生物化学兵器」の開発研究をしている、と噂され授業は多くが休講でした。私達は「戦争を知らない子供達/作詞北山修作曲杉田二郎」を唄っていました。学生達の自覚は「戦争反対の逆説的な歌詞」と感じていましたが、心の片隅には「戦争責任や歴史には目を塞いでいたい」欲求や逃げる気持ちもありました。映画では吉永小百合さんが主演して「姫百合の塔」が放映されました。

東映が配給した「姫百合の塔」のポスター

日活では吉永小百合さん主演で「姫百合の塔」を配給しました。

「姫百合の塔資料館」の駐車場に駐車すると。料金は無料でも資料館に入る為に歯土産物店の店内を通らなければなりません。観光地の商戦は駐車時から火花を飛ばしています。「姫百合の塔資料館」の庭に入ると巨大な「カジュマル」の樹が迎えてくれました、最初に「ジュマル」を観たのは読谷村の「チビチリガマ」でした集団自決した石灰洞に数本の根か幹か判別できない大樹はまるで妖怪の様に聳えていました。屹度沖縄戦で不合理な死を遂げた怨念が樹木を妖怪にさせたのでしょう。「姫百合の塔資料館」の庭に自生している「カジュマル」もさながら妖怪の様にみえました。

「姫百合の塔資料館入口の小川に根を張っている「カジュマル」は妖怪の様でした

無数の献花がささげられた、姫百合の塔は資料館入口にありました

これは姫百合の塔の脇に建って居る「相思樹の歌」記念碑です

別れの曲(相思樹の歌)は、青年詩人太田博とひめゆり学徒隊の少女たちとの戦場での奇跡的な出会いから誕生しました。第二次世界大戦末期の1944年、戦いは限りなく敗色を帯びて、沖縄にも近く米軍の上陸が危惧されていました。那覇港を空襲から守るため、野戦高射砲第79大隊第二中隊は那覇商工学校に本部を置き与儀・牧志など数カ所の高射砲陣地構築を急いでいました。折から学徒動員により、県立第一高等女学校」「沖縄師範学校女子部(姫百合学徒隊)の乙女たちが太田博少尉の指揮する部隊に配属になり、慣れない土木工事に従事し、さらに傷病兵士の看病に従事しました。彼女たちの聡明さと真摯な仕事への取組みに感動した太田博は、詩人の心を揺り動かされて、翌年三月に控えた卒業式の餞(はなむけ)として、「卒業生に贈る詩」と題した 一篇の詩を作りプレゼントしました。太田の詩は、心ならずも国威発揚と戦意高揚の勇壮な詩作に囲まれてきた引率の音楽教師東風平恵位に、忘れていた香り高い唱歌になって沖縄人に歌い継がれています。

この写真は古い写真で姫百合の塔資料館の記念碑の前にあった集団自決した鍾乳洞(ガマ)です。危険なので現在は塞がれた様です

姫百合の塔資料館の玄関ホール沖縄師範学校女子部(姫百合学徒隊)の乙女達の声が響いている様な平和な図です

姫百合の塔資料館の玄関ホールの壁には姫百合学徒隊)の乙女達の合同写真が張られていました。

上の合同写真の説明「姫百合は生徒達の愛称で那覇市杏理にあった校舎があった女学校(1150人の在学)。1945年の沖縄戦で悲惨な死を迎え初めて戦争の恐ろしさと命の尊さを知りました。彼女達の叫びを知って下さい・・・・・。

姫百合の塔資料館の中庭はまるで乙女の花園でした

姫百合の塔資料館の鍾乳洞の病院壕を再現していました。この鍾乳洞で乙女達は懸命に負傷した兵士を看病し、

最期は兵隊の指導に従って集団自決したのでした。

姫百合の塔資料館に展示してあった証言の閲覧室、現天皇皇后両陛下も熱心にお読みになっていました。

平和記念公園も姫百合の塔資料館も訴求力が強烈です。事実は雄弁であり心のダイレクトに響きます。それだけに疲れます。この後息子は沖縄戦で最期抵抗の址豊見市にある「海軍司令壕跡」にゆきました。

                                        【了】。