「斎場御嶽」を見学して次の目的地「沖縄平和祈念公園に向かいました。

平和祈念公園は本島南部の「沖縄戦終焉の地」糸満市摩文仁の丘陵を南に望み、南東側に険しく美しい海岸線を眺望できる台地にありました。


沖縄平和祈念資料館3階のピロティ―から眺める東シナ海の海、

手前が糸満市の丘陵で広大な台地が「恒久平和を誓う空間」になっています。

向いの建物が「平和祈念資料館」手前左が平和の礎/いしじ」団体客が次々に訪れます

これは「平和の灯」です。広大な園内の一番海側、多くの人々が身を投げたであろう海抜50mの断崖絶壁の手前にあります、沖縄戦終結50周年となる節目の平成7年(1995)から灯り続けている「平和の火」です。沖縄戦最初の米軍上陸地である慶良間諸島の阿嘉島(あかじま)で採取した火、原子爆弾が落とされた広島市の「平和の灯」、長崎市の「誓いの火」を合わせた火が、恒久平和を願い灯し続けられています。

公園整備は琉球政府時代に着手、復帰後昭和47年から都市公園として本格的な整備が進んでいます。近くにある「姫百合の塔」と併せて見学する人が多く私達が行った時にも大型バスが次々に到着、広大な平和祈念公園を見学しました。

此れは沖縄戦で亡くなった人の名を刻んだ「平和の礎/いしじ」です。お名前は糸満市、那覇市等地域毎に刻まれていました。沖縄以外は多分軍人でしょう。日本人以外にも米国人韓国人のお名前も確認できました。写真は黒く映っていますが実際は赤い御影石でした。

日本人戦死者の平和の礎の献花台

外国人戦死者の平和の礎献花台

公園内には沖縄戦の写真や遺品などを展示した「平和祈念資料館」、沖縄戦で亡くなられたすべての人々の氏名を刻んだ「平和の礎」、戦没者の鎮魂と永遠の平和を祈る「平和祈念像」、そして摩文仁の丘の上には国立沖縄戦没者墓苑や府県、団体の慰霊塔が50基建立されていました。

南の海に向かって要塞の様に建っている沖縄平和祈念資料館は赤い琉球瓦が綺麗でした

沖縄平和祈念資料館の床には地図がデザインされていました。

海を介して文明が琉球に及んだ「海の道」は「沖縄戦の戦争の道」でした。

沖縄平和祈念資料館の1階入口沖縄戦の資料は2階以上に展示されていました。

縄県平和祈念資料館では、映像や模型を使い圧倒的な迫力で恒久平和を訴えていました。沖縄戦にいたるまでの沖縄の歴史から、住民の見た沖縄戦、戦後の米軍統治と本土復帰、平和創造を目指す沖縄の姿までを5つのブースに分け常設展示していました。また、未来を担う子どもたちが平和を愛する心をはぐくむための未来を展望するゾーンも設けられ、平和について語り合える場になっていました。なかでも圧倒的訴求力があったのは第二展示室「住民の観た沖縄戦/鉄の爆風」でした。焼夷弾が空から降って来て焦土に化す郷土を沖縄住民の姿を映像と実物(焼夷弾)で展示してありました。

沖縄平和祈念資料館二階の第二展示室「住人の観た沖縄戦/鉄の爆風」展示室

次いで強い印象が残ったのは第四展示室「住民の証言」でした・沖縄戦を体験した無念の住人の証言は読み易い様にクリアファイルに閉じて閲覧できる様に整備されていました。隣の高校生が読みっていました。

沖縄平和祈念資料館第四展示室「住人の証言」の閲覧室、写真出典沖縄平和祈念資料館

昭和天皇が晩年に硫黄島を訪れ献花され、次に沖縄に行かれました。現上皇様は当時皇太子ご夫妻)は1975(昭和50)年、初めて沖縄を訪問した際、「ひめゆりの塔」で活動家に火炎瓶を投げ付けられた。しかし、その後も沖縄への思いは変わらず、計11回にわたって訪れ、慰霊施設などで遺族らと交流。広島・長崎の原爆の日、終戦記念日とともに、沖縄慰霊の日の6月23日を「忘れてはならない4つの日」に挙げられました。昭和天皇の想いを確実に継いでおられます。現上皇様は。架線ビンを投げられた際に「石を投げられても献花して…亡くなられた方々を慰霊したい」言われました。昭和天皇次いで現上皇更に現天皇に平和への誓いは確実に受け継がれています。

現天皇皇后両陛下は沖縄平和祈念資料館第四展示室「住人の証言」を閲覧されました。

日本国民も沖縄住人も恒久平和への誓いを新たにしました。

国内外の観光客をはじめ、慰霊団、修学旅行生等が多く訪れる聖地でありますが、観光の要所でもあります。沖縄平和祈念公園整備事業は毎年進行していて。始まりは1963年に「沖縄戦資料館設置期成会」が結成され、1972年「沖縄戦資料館設置期成会「沖縄戦資料館の設置趣意書」を発表し、1971年6月、沖縄戦資料館設置期成会が「沖縄戦資料展」を開催、1974年には「沖縄県立平和祈念資料館」を竣工し、1974年6月13日に沖縄県立平和祈念資料館設置条例が制定され、1975年「沖縄国際海洋博覧会」開催に合わせて、前身である「沖縄県立資料館」が開館しました。資料館設立の直接の動機は、当時佐藤内閣の復帰問題対策担当大臣山中貞則総務大臣(後の初代沖縄開発庁長官)の意向であったそうです。その後、沖縄県は「県立平和祈念資料館運営協議会設置要綱」を制定し、1976には学識経験者と県の関係機関職員からなる運営協議会(委員長 中山良彦)が発足し、1978年には、展示内容を一新して。現在に至っています。沖縄記念公園は毎年のように整備は進み細菌では「蝶々館」も整備された様です。屹度糸満市の断崖の上から飛び立って台湾に向かうアサギマダラに平和への想いを託しているのでしょう。沖縄記念公園資料館では偶々「シーサー展」を実施していました。シーサーは民家の屋根に乗って災厄から家族を守る守護神と思われていますが、沖縄住人にとっては故郷を戦争の災禍から防御する毘沙門天の様なモノでしょう

旧御茶屋御稜を守護するシーサー(獅子)

首里城近くの玉稜で琉球王の墓を守るシーサー(雌で子供を抱いている」

恒久平和を誓う精神は昭和憲法の核です。現上皇様は日本国民が忘れてはならない4日を示しました。広島・長崎の原爆の日、終戦記念日とともに、沖縄慰霊の日の6月23日がその平和記念日です。         【了】。