2月22日は朝一番で「チビチリガマ」を参詣して更に読谷村のユネスコ文化遺産「座喜味城跡」に向かいました。私達のベースになったホテルは恩納村の茶谷ベイにあったので、座喜味城はホテルに近い旧跡です。座喜味城跡は1956年に琉球政府の重要文化財に指定され、日本復帰の1972年には国指定史跡に。翌年の1973年から1985年の間、文化庁・沖縄県の補助を受けて城跡の発掘調査や城壁修理が進められていきました。築城したのは1420年代。尚巴志(しょう・はし)が琉球王国の初代国王となった頃で、国王に対抗する勢力を監視する目的で、有力な地元領主の按司・護佐丸(ごさまる)に命じて築城したのでした。

尚巴志の今帰仁城(なきじんじょう)攻略に参加した護佐丸は、その時の働きが讃えられ、領地を現在の恩納村(おんなそん)から読谷村へと移したといわれています。築城に際しては遠く奄美諸島からも人夫を呼び寄せ、山田城を解体して手渡しで石を運び、石を積んでいったと伝えられています。私達は沖縄で「首里城」「今帰仁城」に「中城城」「勝蓮城」等を見学しましたが座喜城だけが要塞で、他の城は「御嶽/斎場」があって、祭政を執行する場でしたが、座喜味城には「御嶽」や王城の址が無く中世ヨーロッパにあった様な「要塞」なのでした。郭を囲む石積みの優雅なカーブを描くアーチはヨーロッパの古城のロマンスを感じさせました。

座喜味城事務所棟から入って座喜味城跡」に向かう道には琉球松の林でしたこの松でヤムチン(琉球陶器)を焼いたのでしょう。

琉球松の林を通リ過ぎると座喜味城の最初のアーチ門の前に出ます

此れが「座喜味城跡」の全容です、左下が正門で入ると最初の広場(郭)が「二の郭」で中央のアーチ門を潜る「一の郭」に出ます。一の郭内にある礎石は「殿舎」の址で兵糧を貯蔵したのでしょう。

琉球松の林を過ぎると座喜味城のアーチ門が出て来ます

座喜味城最初のアーチ門を潜ると「二の郭」に出ます。この石段を孫は駆けあがってしまいましたが、

手摺も無いので私には怖くてなりませんでした。

座喜味城の一の郭、正面の礎石は「殿殿」の址で此処に兵糧や水を溜めて敵襲を迎撃する体制を備えていたのでしょう

座喜味城一の郭の石積みの上から郭の内側と東シナ海を遠望します。座喜味城は東シナ海から襲って来る敵を迎撃する要塞だったのでしょう。

座喜味城は読谷村の第一の観光地です。一帯は公園に整備されています。公園内には見慣れない道具が展示されていました。確認すると「サトウキビ」の絞り器でした。水牛にこの絞り器を轢かせてサトウキビから汁を絞り出して更に煮詰めて砂糖を製造したのでしょう。昨日アップした琉球陶器も含めて読谷村の生計を知らしめていました。

これが読谷村の座喜味城公園に展示してあったサトウキビの絞り器です。琉球村には水牛も併せて展示してありました

沖縄県民は琉球の時代から敵襲に備えて防御を重要視して来たのでしょう。現在「辺野古基地」の拡充については内地人より過剰に反応して大反対しています。辺野古拡充策は市街地にある「普天間飛行場/世界一危険と評価」の撤退の見返りです、沖縄には東アジア最大の米軍基地基地「嘉手納」もあります。狭い沖縄の一五%は米軍基地です。沖縄の住民投票では七〇%が基地反対なのは琉球の歴史や運命的な地政学上の位置にある為でしょう。沖縄本島には無数の要塞やグスクが在ります。私達は沖縄人民の「琉球文化に対する自刎」を尊重し琉球文化に理解し、無意味に反米感情を逆手しない事が大切だとおもいました。この辺の事は後日辺野古基地や嘉手納基地や普天間を往訪しました、その時に報告する事にしましょう。     【了】