2月16日(木)に昭和レトロウオーキングで友人等と湯島天神を詣で更に都バスに乗って小石川伝通院を詣でました。伝通院には何度も詣でていますが、何時も墓地を巡って於大の方(家康の生母)や千姫(家康の孫娘)の墓を詣でます。改めて戒名を読んで没年等を確認します。徳川家の権威を示す大きな宝篋印塔を眺めながら思います。千姫と云えば鎌倉の東慶寺を再建した人物です。祖父徳川家康の命令で豊臣秀頼に嫁ぎ。大阪城落城の際は夫秀頼と義母淀君の助命を嘆願したにも認められず、と云っても大阪落城と共に死ぬ事も出来ず、徳川家の重臣「本田忠刻/桑名藩」の正室になって、晩年は姫路城に入り鎌倉の東慶寺で過ごします。桑名では夫本田逝き剃髪して「天樹院」になります。桑名藩本田家は姫路に入封されたので千姫(天樹院)も姫路に転居します。 豊臣秀頼公息女

「天秀尼」が東慶寺20世として入山した事から同寺の再建に尽力し、1643年(寛永20年)東慶寺は再建されます

 

東慶寺20世天秀尼(東慶寺松ヶ丘文庫)

東慶寺宝物館には常時精工な蒔絵が展示されていまあすが、どれも千姫(天樹院)が息女(天秀尼)の為に用意し持たせたものでしょう。屹度今頃(2月18日」は梅が満開になって鶯も寄って来ている事でしょう

東慶寺宝物館の「初音蒔絵火取母」

此方は東慶寺宝物館の葡萄唐草模様の蒔絵蓋にイエズス会のマークが目立ちます。金平糖でも入っていたのでしょうか?

千姫も家康同様に長寿でした。前半生が多難で苦い体験が続いた天樹院でしたから「早くに天寿を遂げたかったのでしょうが、運命は生憎で寛文6年(1666年)2月に江戸の竹橋で死去死去、竹橋御殿は明暦の大火で消失享年70歳でした。祖母於大の方の墓所である伝通院と浄土宗総本山知恩院に分骨されました。

此れは伝通院にある「於大の方」の墓安山岩による宝篋印塔です

「於大の方」の墓には「傳通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼」の院号が刻まれています。

於大の方の墓の北30mに千姫(天樹院)の墓が祀られています。「天樹院殿栄譽源法松山禅定尼」が戒名でした

「天樹院」の墓前には枝垂れ桜が植えられていまあした、屹度波乱万丈であった千姫の霊を慰撫するような美しい桜を咲かせるのでしょう。以前篤姫の墓を増上寺に詣でて墓前に植えられた枝垂れ桜を愛でた記憶があります。どれも祇園桜の実生桜の様に見えました。桜が咲いたら再度千姫の墓を詣でたいと思いました。それにしても宝篋印塔は真っ黒で重工長大な墓です。屹度家光の江戸城改築の際に伊豆(湯河原)から運んだ「小松石」でしょう私達の千姫に対するイメージでは小型のお墓で石は赤い御影石が適当です。武士の娘である事から父秀忠のイメージでお墓を作ったのでしょう。それでなくてもしんぱいなのは地震で倒壊しないかと云う事です。関東大震災では鎌倉鶴ケ岡八幡宮の一の鳥居(明治時代の国宝)は倒壊して鎌倉第一小学校の脇に置かれています。今次の能登半島地震でも墓石は倒壊しています。最近の墓石屋の広告を観ると石と石の間にはクッション付き接着剤を挟んで耐震対策を施しています。中には石の接合部に凸凹を刻んで嵌めこんで居たりしています。屹度関東大震災で千姫のお墓も倒壊して現存の墓は倒壊対策が施されているのでしょう。

能登半島地震で倒壊した墓石(読売新聞/玖珠町)

  宝篋印塔の構造、基本的には五重塔と同じです。

でも木造の塔と(柔構造)違って石は重いので耐震対策が難しいのです

                              

                             【了】