昨晩(2月11日)のNHK大河ドラマ「光る君え」では「二人の才女」を放映して清少納言が登場して、面白くなりそうな期待を抱かせました。紫式部と清少納言を比べれば日本人の多くは「紫式部」に好意を抱き清少納言は嫌われ者でしょう。漢詩の知識をひけらかす才女よりも和歌で忍ぶ恋心を表現する紫式部の方が好きな人が多いのは自然な事です。愈々これから二タイプの才女のバトルが始まりそうです。紫式部を吉高里佳子が演じているのに対し清少納言を演じるのがファーストサマーウイカであるというのも興味を煽る配役です。

紫式部を演じるのは吉高里佳子さんです

清少納言を演じるのは清少納言を演じるのがファーストサマーウイカさんです

これからは一条天皇の后でああった「中宮定子/父は藤原道隆と「中宮彰子/父は藤原道長」の権力闘争が勃発するのでしょう。先ずは花山天皇の退位出家が現実化し藤原兼家(長男が道隆三男が道長)が天皇家の外祖父として権力を握るのでしょう。藤原道隆と道長の兄弟抗争は中宮定子と中宮彰子の争いであって、「清少納言と紫式部」の才女同士のバトルになるのでしょう。

処で源氏物語の主人公光源氏は架空上の人物であっても屹度モデルがあったのでしょう。光源氏の出生が桐壺帝の第二皇子として京都に生まれます。母は桐壺更衣。幼少の頃から光り輝くばかりの美貌と才能に恵まれ、「光る君(ひかるきみ)」と綽名された、事から在原業平が思い当たります。次いで源融から藤原道長や「藤原実方」もモデルとして想い出されます。私は昨秋宮城県の名取市に訪れ藤原実方の墓と落馬失命した道祖神社を訪問しました。西行法師や芭蕉が藤原実方を偲んで陸奥を旅して目的を自分の目で確認したかったのです。具体的には奥の細道(芭蕉)の句の現地を観たかったのでした。

此れは宮城県名取市笠島にある藤原実方の墓(塚)

此れは笠島の芭蕉句碑

具体的には次の芭蕉の作句の現地を確認したかったのです。藤原実方は此処で落馬失命してしまいます。芭蕉が行った時も湿地で歩き難かったのでしょう。泥質地の中で島の様な場所なので「笠島」の名が付いたのでしょう。

            笠島は何処五月のぬかり道

藤原実方は三十六歌仙の一人で百人一首には次が採られています

かくとだに えやは伊吹の さしも草 さしもしらじな もゆる思ひを

さしも草とはヨモギの事でお灸の素材になる薬草で伊吹山のヨモギが古代から有名でした。お灸の熱さを恋心に託して歌ったのでしょう。でも実方の運命を左右した作品は次の和歌でした

 さくらがり雨はふり来ぬ おなじくは濡るとも花の陰にくらさん  (撰集抄 巻八)

東山に桜見物に行った折に雨が降って来たのでしょう。実方は雨に濡れても美しい桜に見惚れていたのでしょう。若い藤原行成(三筆の一人)は「わざとらしい!」と一条天皇の前で批判しました。瞬間湯沸かし器の様に激怒した実方は行成の冠を取って投げてしまいます。一条天皇は実方に陸奥守への左遷を命じます。実方は才能にも美貌にも恵まれた貴公子でモテモテ男だった様で噂された女性は二十人も居たそうです、でも誰もが知っている恋の相手は清少納言でした。文化的な一条天皇が和歌批判に対するいざこざを根拠に人事を決めたとは思えません。此れからの「光る君え」がどんなストーリーになるか興味深々デス。

実は藤原実方が都を去って陸奥守に転じる際に私の住む横浜市戸塚区上倉田町を通った様です。現在の県道「柏尾大船線」は古代の奥洲古道です。丘陵の尾根道が奥洲古道でした、尾根道に実方塚があって藤原実方の墓と云われています。

戸塚区上倉田の尾根道左の崖の上に実方塚が在りましたが都市計画道路(戸塚遠藤線)の計画で実方塚は撤去移転させられました

此れが居汚点後、現在の実方塚です

でも史実は宮城県名取市の笠島なのでしょう。現在の実方塚は近所の集落の住人が実方姓である事からも藤原実方の家族や家来が戸塚で不慮の死をしたので其処に埋めて墓にしたのでしょう。実方一族は横浜自動車学校の経営や不動産業を営んでいます。藤原実方が生きた証は西行や芭蕉が偲び日本文化の髄になって存続し、昨夜もNHKの大河ドラマ「光る君へ」になって思い起こさせてくれました。                  【了】