今年の春は元環境大臣の山本氏(愛媛県)のお墓参りを兼ねて松山から宇和島を経て四万十川に淀川に沿って南下高知市を経て、美馬市(吉野川中流域)を巡って松山空港に戻る旅行計画です。今は旅行前の最も楽しい時期で雑誌「日本の街道」を読みながら最新の道路マップを見つめながら温泉や文化財や伝説等を調べています。現下最も観たい処が清流「仁淀川」です。澄み切った清流は「仁淀ブルー」と表され人を魅了しています。

仁淀川の源流域にあるにこ淵です。

石鎚山から流れ出た仁淀川は花崗岩の白い石を運びブルーと美しい対比を見せる様です

仁淀川下流域では沈下橋で地域住人の生活を守っています(片岡橋)

仁淀川の​​​​上流中流域の町は「高知市いの町」で土佐紙の博物館「いの町紙の博物館」があります。和紙の製作には綺麗な水が欠かせません。美味しい川魚も含めて和紙も仁淀川の清水の恵みでしょう。

いの町紙の博物館の体験教室(出典:博物館)

一般に日本三大清流とは「四万十川」「長良川」「柿田川」のことです。いずれも、水質が日本一良いとか、延長が一番長いとかいう訳ではありませんが、ダムや堰がない、自然環境が保護されている、景観が良いなどの理由で、日本を代表する清流として認められています。気付く事は四国の1級河川が多い事です。四万十川が日本一の清流と誇れば仁淀川も穴吹川(徳島県美馬市)も日本一と主張しています。四万十川と仁淀川は四国第一の高山(石鎚山)から流出していますが吉野川は「剣山」から流出しています。どの1級河川共にダムが無くブナや椎の照葉樹林が生い茂っています。江戸時代以降は林業が主要産業で「吉野杉」や「蝋燭/原料は櫨の木」や紙等樹木の恩恵に浴しています。

此れは現代も伝統素材伝統作業で和蝋燭を製造販売している大森和蝋燭屋です。

四国の高山はフォッサマグナに沿って並んでいます。石鎚山も剣山も花崗岩です。花崗岩はマグマが地中深くで冷えて出来た火成岩で主成分は石英と雲母です。高山の岩が風化して崩れると川が中流域迄運んで石として置いて行きます。「山紫水明」と評される仁淀川中流域の景色を形造ります。川の水は石を転がしながら海に運びます。石同士がぶつかり合って砂に変わります。桂浜は石英の白砂の海浜になり月の名勝になりました。

白砂青松の名勝「桂浜」は仁淀川が運んだ砂が演出しました。

差て問題は「仁淀川」や「四万十川」や「吉野川」の源流域の山村です。ダムを造らなかったので環境が保存されたのは事実でしょう。しかし貿易自由化(1960年(昭和35年)し為替も貿易品目も原則自由化されました。当時の農林省は「米を聖域として守り、林業は自由化の嵐に晒しました。結果林業は崩壊し、四国の森林鉄道も廃棄されてしまいました。昭和の世代は工業を守る為林業を捨てたのでした。そんな選択の成果が現代の四国に清流が守られ林業が荒廃し限界集落(林業が主産業)が廃村になってしまいました。祖谷の二重かずら橋も山村の生活を守るつり橋であったものが現在は観光資源になりました。

魚梁瀬森林鉄道(ゆずロード)は廃棄されてしまいました。営林所の社宅を含めて総て廃墟になっているようです。​​​​

徳島県三好市祖谷の二重かずら橋はソマリが作った生活橋でしたが、今は観光資源で通行料550円です。

徳島県三好市祖谷の廃屋はソマリの住居だったのでしょう。

集落も人間と同じで見捨てられた事実を悲しんでいる事でしょう。仁淀川の清流は見捨てられた集落が流している涙の様に見えます。過ぎ去った過ちを幾ら悔悟しても「腹水盆に返らず」です。でも土地に想いを寄せる人の想いは強靭です。廃屋や廃村を逆手にとって「山村の妖怪村」とか「案山子で村おこし」に励んだり我が世の春を迎えた鹿を狩猟して「鹿肉バーガー」を売り出したりしているようです。

徳島県三好市の大歩危駅は妖怪の「こなき爺」で町おこししています

徳島県三好市東祖谷の天空の村・名頃かかしの里には案山子を作って村おこしをしています

徳島県三好市祖谷の道の駅の名物は「鹿バーガー」だそうです。

沖縄の首里城の再建に際して既に国内には素材になる檜は無いそうです。前回(太平洋戦争後)の首里城再建は「台湾檜」を使用しました。薬師寺西塔も素材は「台湾檜」をつかいました。流石に台湾政府は檜の伐採を禁止しました。そこでやむを得ず興福寺の中金堂は、カメルーン産のアフリカケヤキ(アパ)を使用しました。日本の国土の三分の二は山林です。重要文化財建物の維持に必要な材木は国内で自給自足するのが理に適った行動です。室生寺の様に(五重塔再建の素材の檜は寺有林で伐採した)出来ないのであれば国有林を計画的に活用すべきです。              【了】