1月13日(土)は友人5人を誘って門前中町深川をウォーキングしました。年末ウォーキングしたのは「砂町銀座と木場」でした。木場は「材木屋」の町、で門前中町は大工の町で、深川は墨田川の漁師が棲んでいた町ですから、江東区は墨田川が育てた町でした。江戸の町が狭いので、墨田川を越えて江東に発展したのは必然だったのでしょう。江東の開発が進むにつれて、成田不動尊が深川不動(成田山東京別院を建て、隣の富岡八幡宮の境内で勧進相撲が始まり「富くじ」が売り出されたのでしょう。墨田川が大きく蛇行して浅草側が浅瀬で木場側が深場だったので屹度墨田川の東岸を深川と呼んだのでしょうが、歴史を紐解くと開発が進んだ寛永年間に深川に住んでいた漁師「深川弥兵衛」が開拓したので深川の地名になったのだそうです。隣の清住は開拓者が故郷の安房の清澄町に似ていたから「清澄白河町」の名に残っているそうです。

1月13日(土)の深川不動尊の賑わい

深川不動尊の本尊不動明王像は屹度昭和の木像なのでしょう。

私達は深川不動尊から隣の富岡八幡宮を詣でて深川七福神の冬木弁天堂に向いました、スマホ片手に「深川丼」の店を探しながら進みます、当初は「深川茶屋」で食べる予定でしたがどうも「深川江戸資料館」の周辺に深川丼屋は集中しているようです。冬木弁天堂には岡野千十の句碑が建っていました。

明治時代岡野千十の「名月や銭金いはぬ世が恋し」の句碑

名月は三日月なのでしょうか?句の内容も句碑の素材の名石も素直ではありませんでした。

                                                冬木弁天堂の賽銭箱上に置かれた弁天様

何処の神社に上がっても掲げられている短歌や御詠歌は信仰の法悦を謳歌したモノです。処が冬木弁天堂の俳句は全く反対です。鎌倉の銭洗い弁財天にこの句が掲げられる訳在りません。何時の時代も、もっと豊かになりたいので弁財天にお願いするものです

「銭金を願わない人なら弁財天に上りはしません。俳句好きな人なら句碑をたてたくなるでしょうが!、冬木弁財天の信徒にとっては不愉快な俳句です。屹度明治時代正岡子規を代表にして新俳句運動に熱を入れた人達は従来の俳句を「月並み俳句」と見下してこの俳句か狂歌かわからぬ俳句に興じたのでしょう。さて、美味しい深川丼を食べたい一心で富岡八幡宮から東に向いて歩き続けました。深川江戸資料館の向かいに「深川宿」と云ったお店がありました。到着した時も行列があって、店を出る時も行列が出来ていました。私の記憶では深川丼は精々1500円でしたが、「深川宿」は2150円と高め菜価格設定でした。深川丼は醤油味(一般向け)と味噌味(大工向け)が在りました。味噌味は朝食で飲んだアサリの味噌汁を冷や飯にぶっ掛けて食べた様なモノで宮崎の「冷や汁」に似た粗末な食べ物の様でした。私は迷わず味噌味を選びました。というのは醤油味は何度も別のお店で食べていたのでした。

此れは江戸深川資料館前の「深川宿」の深川丼/味噌味です

此方は友人が注文した深川丼/醤油味です何方も2150円でした

                                    【了】