10月16日鶴岡市の在る湯浜温泉の漁師民宿「真砂屋」を出発して私達は先ず「禅宝寺」を詣でました。次いで鶴岡市の中心部にある「致道博物館」に向かいました。「致道」の名は酒井家の藩校「致道館」によるモノです。鶴岡は庄内藩酒井家の鶴岡城の在った土地で、鶴岡城三の丸を旧藩主酒井忠良が1952年(昭和25年)に財団法人「致道博物館」に寄贈1957年(昭和32年)財団法人致道博物館と改称、平成24年度から公益財団法人に移行、に団法人以文会立致道博物館の所有管理に移行してきたものです。現在は鶴岡市の所有で藩校致道館の管理が指定管理を行っています。鶴岡市市役所や藤沢周平文学館等は何れも江戸時代は酒井藩鶴岡城の城内を鶴岡公園にして慶応大学鶴岡キャンパスを含めて鶴岡公園内に立地しています。

此れは酒井家旧庄内藩主御隠殿です

酒井家旧庄内藩主御隠殿の大広間

此れは致道博物館内の庄内藩主御隠殿に展示してある徳川32人図。トップがいえやすで二段目左が酒井忠次です

酒井家旧庄内藩主御隠殿の廊下に展示してあった夥しい数の釣り竿藩首を初め家臣は釣が好きだったのでしょう。

戊辰戦争で抵抗した酒井藩は明治維新政府から冷たくされましたが西郷隆盛は好意的に遇してくれました。

鶴ヶ岡城三の丸跡地であり、かつては藩主の御用屋敷があった。現在は、御隠殿と呼ばれる藩主の隠居所の一部と酒井氏庭園に加え、広大な敷地を利用して旧西田川郡役所、旧鶴岡警察署庁舎、旧渋谷家住宅(田麦俣多層民家)が移築され、さらに収蔵庫・民具の蔵がそれぞれ独立して配置されていいました。庄内藩「藩校致道館の資料」「書院作りの庭園」、倉は「農民の民具」や「漁師の道具」等が展示されていて興味は尽きません。庄内藩酒井家は徳川四天王の筆頭といわれた酒井忠次を祖とするしますが、第三代忠勝が元和8年622)年に庄内藩主として入部してから、廃藩置県に至る明治四(1871)年までの約250年間、庄内地方を治めました。但し戊辰戦争では東北夕飯連合の要として勤皇軍に抵抗したため明治維新政府には冷たくされました。江戸時代を通して酒井家の歴代藩主は、その良政で豊かで平和な藩をつくり、領民から敬い慕われてきました。廃藩置県ののち城跡には、庄内一円の人々の総意によって庄内藩主四神を祀った荘内神社が建てられました。今も井家は庄内に暮らし、庄内のために地域振興や歴史文化の伝承に力を尽くしていますその具体例が致道博物館です。多くの地方都市ではシンボルとして「鉄筋コンクリート造り」で天守閣を復活させて町のシンボルにしていますが鶴岡市は明治時代に作られた建物を初め藩校時代の建物や田麦俣の多層民家を集中展示しています。致道博物館のシンボルは旧鶴岡警察署建物です。設計は大工棟梁の高橋兼吉が行ない、明治前期に建設された擬洋風建築のひとつの到達点を示すものといわれています。平成30年6月修復後公開された木造3階建て建築物(重要文化財)です。

3階建ての議事洋風建築の旧鶴岡警察署二階にピロティ―が在りますが実際は1階屋根裏に二階があって、3階及び時計塔は登れなかった様です。維新政府が権威を示す為に1見3階建て+時計塔にしたのでしょう。県令三島通庸の時代に建築されました。

こちらは旧西田川郡役場です

旧西田川郡郡役場は1881(明治14)年、初代県令の三島通庸の命によって建てられました。大工の棟梁は石井竹次郎と鶴岡出身で西洋建築を学んだ高橋兼吉です。兼吉は旧西田川郡役所以外にも多くの擬洋風建築を手掛けた庄内随一の棟梁でした。建物は中央玄関に突出したバルコニーと中央に塔屋・時計台がついた、高さ20メートルの擬洋風建築で、玄関ポーチの柱脚台や釣り階段などにルネッサンス様式がみられます。当時、桑植付けに対する貸付、繭糸品評会の開催や養蚕指導を行っていました。国重要文化財です。

田麦俣の多層民家であった渋谷家住宅(国重文)

多層民家の正面

大棟に「水」と書かれた正面写真

多層民家の広間

致道博物館は五目チラシの様に興味深い文化財が詰まっていました。で、私が一番楽しく観たのが酒井家の蔵を転用した民具の展示でした。何時もは米作りの民具を観察するのですが、致捕獲して霊を熊祭りで慰霊する様に鮭を狩漁して卒塔婆を建てて鮭の霊を弔っていました。

 

船底の浅いい川舟

鰻やモズク蟹を捕獲した道具

貝を捕獲した熊手状の道具

鮭の霊を弔った卒塔婆

                          【了】