先週は小石川後楽園に花菖蒲を観にゆきました。余りの美しさに欲を出して皇居東御苑の花菖蒲も観て午後4時に帰宅しました。昨夜花菖蒲の美しさを想い返しながらねていると、深夜ラジオでは「雨の音楽」を特集していました。私は大学卒業の頃流行って居た映画「シェルブールの雨傘」がラジオから流れる事を待っていたのでしたが「悲しき雨音」等懐かしい曲が流れても最後までシェルブールの雨傘」はながれませんでした。私の学生時代は入学の頃に「卒業」卒業の頃「シェルブールの雨傘」を観たなあ!想い起こしていると突然に今春京都の周山で観た常照光寺の「御車返しの桜」を想い出しました。

常照皇寺の桜@京北周山町/京都市 - 京都

此れが常照皇寺です。門跡寺院らしい風格や優雅さが築地越しに伺われます。禁門の上に見えるのが「御車返しの桜」です

「御車返しの桜」は遅咲き桜で周山の山里に咲く名桜です。来より名桜と謳われ、一樹に八重と一重の花を持つ「地主桜」です。江戸幕府は350年の平安を果たしましたが嵯峨天皇は千年の都をはたしました、京都の都を名実共に平安京にしたのは嵯峨天皇でした。平城京から平安京に遷都したのは桓武天皇でしたが後継者は混乱します。平城天皇が即位しますが「薬子の変」が生じます。平城天皇は病気で809年(大同4年)没すると嵯峨天皇が即位します。藤原薬子は旧平城天皇の側近としての主張から嵯峨天皇の反対勢力になります。嵯峨天皇は薬子の変平定を地主神社に祈願します。嵯峨天皇は、あまりの美しさに二度、三度と車を引き返しては見事に咲く花を眺めた。このことから「御車返しの桜」とも呼ばれます。江戸時代には後水尾天皇も「御車返しの桜」を愛でたと言い伝えられています。

 

此れが京都周山に在る常照皇寺です。本堂前庭に咲く桜が「御車返しの桜」です。

この他寺には「九重桜」と「千年山桜」が咲いています。順次桜は咲いて最後に咲くのが「御車返しの桜」です。

嵯峨天皇は三筆の一人であり漢籍にも造詣の深いインテリであったようです。同時に政治力もあって「坂上田村麻呂」を登用して検非違使を作ってく「薬子の変」を初め蝦夷の征伐を果たし多賀城を築きました。岩手県花巻市の三熊野神社に残された兜跋毘沙門天立像は坂上田村麻呂が造像させたモノでしょう。福島県の田村市に伝承される道祖神は「田村様」と呼ばれています。

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福島県田村市に祀られている人形道祖神の「田村様」は坂上田村麻呂を崇めたものでしょう。

さて本題の「御車返しの桜」に戻りましょう。周山の山里には嵯峨天皇の牛車も引き返させた名桜が在ったのでしょう。でも常照光寺の住職は「御車返しの桜」が言い伝えだけではなく”同じ樹に八重と一重の桜が咲く「奇跡の桜」である”教えてくれました。其処で私と友人は競って桜の花弁をさがしました。下から見上げ本堂の廊下に立って上から横から見詰めて八重の花と一重の花弁をさがしました。でも桜の花弁は八重ばかりで一重は見当たりませんでした。庭には九重桜(奈良)と千年山桜が自生しています。

 

これは中島千波氏の描いた常照光寺の九重桜です

常照皇寺の左近の桜

こちらは常照光寺の千年山桜です寺では「左近の桜」と案内しています。

若しかしたら九重桜と山桜のDNAが混ざってしまったのかな?想像しました。少年の頃「幸せのクローバー」を懸命に探した記憶が蘇っただけでした。でも一生懸命に観察した事は有益でした。今私は京都観桜旅行の旅行記(アルバム)を作成しています。その竿頭に次の自由詩を掲載しました。

【御車返しの桜】

2023年は早咲きだったね!

細雪の桜は鏡池に散って名残雪だったし、御室桜は花茣蓙だったね!

御寺では九重桜も千年山桜も散ってしまっていたね!

でも「御車返しの桜」は花盛りだった。

僧が「御車返しの桜は一つの枝に八重と一重の花が咲いて居る」いうもんだから、

4人で競って花を探したね!でも八重咲の花びらばかりで一重は見つからなかった

帰り際に「八重ばかりで一重は見つからなかった!」云ったら

「良く観る事が大切なんだ!」と諭された

若しも、僕が先に逝ったら君はこの寺で一重の桜を探して欲しい

万一君が一重の桜を見つけたら、それが僕だよ!

そして、僕たちの誰かが先に逝ったら此処で想いだそうね!!

 

                 【了】