5月20日は慶応大学日吉キャンバスにおける新入生歓迎セミナーに参加してきました。ズーム授業が続いて気の毒だった新入生も授業やクラブ活動が始まって、本来の大学生ライフが始まった様です。学食には活気と笑顔が満ちていました。名物の銀杏並木も緑が濃く吹き渡る風も爽やかでした。

 

慶応大学日吉きゃんぱす来往者大会議室で開かれたセミナー

慶応大学日吉きゃんぱすセミナーのポスター

新入生歓迎セミナーは鎌倉大仏高徳院の住職佐藤幸雄氏(慶応大学考古学教授)が講師で自坊(自分が住職の寺)の国宝の変遷を説き明かしました。私が小学生時代(昭和30年代)鎌倉大仏には自由に出入りできて体内に入って登る事が出来背中の窓から高徳院裏山を観る事が出来ました。大仏の近くに自邸が在った川端康成の随筆に「山の音」が在ります。屹度今頃の季節でしょう。10人ほどの女性が鎌倉の尾根道をハイキングして鎌倉大仏の背中を樹間から観る場面を描写していますが。私の少年時代の体験は逆で大仏の背中の窓から鎌倉の丘を眺めたのでした。佐藤幸雄教授の講義では背中の窓は外を眺める造作ではなくて製造工程で銅で鋳造する際に余分な胴(熱した液体)を輩出する際の掃き出し窓でした。日本刀を鋳造する際に玉鋼を鋳出すときにも余分で粗悪な玉鋼を履き出す窓が用意されていました。佐藤幸雄教授の説明では高徳院は当初律宗(極楽寺)の寺院であったが江戸時代には材木座に在る光明寺の僧侶が住職になったり建長寺(臨済宗)の末寺であった事もあるそうでした。お檀家は30家にも満たない小寺院だったので大仏の体内に人を入れて料金を徴収したのでしょう。明治時代には大仏前で記念写真を撮影して寺族は生活の糧にしていたそうです。

ご存知鎌倉大仏の正面

鎌倉大仏の背中にある窓は鋳造過程の鋳物排出口を苦肉の策で体内巡りの際の窓に活用したモノでした。

又浅草寺(江東区浅草)とも関係が深かった様で昔は高徳院の門に浅草寺幼稚園から送られた草履が吊り下がっていたものでした。

鎌倉幕府の正史「吾妻鏡」には暦元元年(1238年)深沢の地(現・大仏の所在地)にて僧・浄光の勧進によって「大仏堂」の建立が始められ、5年後の貫元元年(1243年)に開眼供養が行われたという記述がある。同時代の紀行文である『東関紀行」には』の筆者(名は不明)は、仁治3年(1242年)、完成前の大仏殿を訪れており、その時点で大仏と大仏殿が3分の2ほど完成していたこと、大仏は銅造ではなく木造であったことを記しているそうです。また当初は釈迦牟尼仏だったそうで阿弥陀如来と呼ばれたのは近世になってからの様です。与謝野晶子の和歌が高徳院境内に建っています。

             「かまくらやみほとけなれど釈迦牟尼は美男におわす夏木立かな」

この””与謝野晶子は誤解しています、鎌倉大仏は阿弥陀如来で釈迦牟尼仏ではありません。”よく指摘されます。高徳院が光明寺(浄土宗)の末寺になったので阿弥陀如来が本尊と思われていますが、歴史的には「釈迦如来」が正しかったのでしょう。開眼時は律宗であり真言宗だったのですから。佐藤幸雄教授は住職であり考古学者である事から気付く事も多い様です。当初は木造であった巨大仏が銅像に代わった事由は推測する他はありませんが、信仰はより堅固のモノに心を寄せるモノです。木造より石や金属は不変である事から天変地異にも壊れない銅像がもとめられたのでしょう。奈良大仏同様に泥を捏ねて二重枠を作ってその隙間に熱した銅を鋳込んでその後泥の鋳型を壊して銅像を作ります。鎌倉大仏は表が5層裏が6層の鋳型で鋳込んであるそうです。鎌倉大仏の建っている土台の土は三浦台地です。台地の堅い部分と稲瀬川の沖積土壌の境界点に大仏が在るそうです。鎌倉は再三地震や津波の被害を受けています。明応4年(1486年)に大地震に伴う津波で大仏殿が流失したと云われて来ましたが万里集九の詩集には既に鎌倉大仏の大仏殿は無くて露座に在ったと記されているそうです。

私達は随分俗説を信じて来た、思いました。考古学は実証科学だと、改めて思いました。貴重な講座でしたが肝腎の大学生の参加が少なく受講生の過半が私と同年配の後期高齢者でした。残念          【了】