京都洛北の周山街道を西に走って常照光寺に向かう途中に弓削村がありました、友人は「弓削村は弓削道鏡が生まれた村かな?」言います。弓削道鏡と云えば孝謙女帝に言い寄った悪徳僧で、下野薬師寺に入流されてしまいます。奈良から京都に遷都した最大の原因を作った医師だか僧であったのか?不詳な人物でした。私は奈良時代末期の時代背景を考えれば洛北の田舎村から弓削道鏡が出現するはずないだろう!弓削道鏡の出和歌山県と推測していました。じつは目的地「弓削の福徳寺」は明治時代に着いた寺院名で江戸時代迄は「弓削寺」とか「「富春庵」と呼ばれていたそうです。明治時代に廃仏毀釈が流行し、天智天皇の血脈が尊重され天武天皇の血脈は批判されると、弓削寺では聞こえが悪くなったので寺院名を「福徳寺」に改名したのでしょう。案内によると福徳寺は和銅四年(711)聖武天皇の勅願を受けた行基が創建したと伝わる。今は曹洞宗の寺院だが創建時は法相宗の寺院であり、名前も「弓削寺」でした。天正七年(1579)明智光秀の合戦に巻き込まれ焼失した後、江戸時代に入りまもなく再興。の頃は「富春庵」と呼ばれていたが安永八年(1779)に再び火災の被害にあってしまった。現存する建物はその翌年以降に再建されたもので、明治十五年(1882)に福徳寺という寺名となり現在に至るそうです。

奈良時代末期の政権総括図、孝謙女帝の歓心を得た弓削道鏡は国政をゆるがしましが、和気清麻呂によって排除されます。

周山街道を京都市街に戻る途中弓削村を通って目的の福徳寺(旧名弓削寺)に登りました。西斜面にあって弓削村全体を見下ろす位置にありました。寺の参道の両側は田圃で今は菜の花が咲いて居ますが、田植えの季節になれば菜の花共々耕作されて肥料になってしまうのでしょう。目的は「霞桜」と呼ばれる「枝垂れの彼岸桜」です。本堂前の霞桜は既に完全に散ってしまい離れた位置に一本の枝垂れ桜が咲いていました。桜の木の周囲は埋め墓です。屹度明治時代まではこの墓地に遺体を埋めたのでしょう。流石に歴史のある福徳寺です。屹度重要な仏像も多く遺されているのでしょう。鉄筋コンクリート造りの宝物庫が本堂脇に建っていました。事前に電話予約しておけば弓削村の村民がカギを開けてくれるそうです。

福徳寺に登る右(北)は水田左は警察犬のトレーニンググランド

警察犬のトレーニンググランドの前には「和同開珎」の記念碑がありました。

警察官がシェパードを訓練していました。

 

みぎの石垣が福徳寺向いが墓地で桜の樹下が「埋め墓/両墓制の遺体を直葬した墓」

西側から福徳寺を観る手前の枝垂れ桜は肝腎の「霞桜」の実生の子供でしょう。未だ花が残っていました。

霞桜の子供木でしょう埋め墓の片隅に枝垂れ桜が未だ花を付けていました。

目標の霞桜はすでに散ってしまいました。奥の建物が宝物館です。

 

宝物館に収納されている薬師如来(一木造り重文)です。

屹度周山街道は奈良時代から開けてい茶のでしょう。歴史のある寺や神社が多く遺されています。福徳寺を観て次は隣の「中道寺」を詣でます。        【了】