今朝(3月28日)は朝もやが立っています。冬の間は向いのマンションの上層階に朝陽が当たっていたのですが、戸塚の市街地は靄に霞んでいます。二階に上がっても富士山は見えないでしょう。冬の間は早朝に二階に上ると西に月が沈み東の丘陵から陽が昇って来るのが見えました。私の好きな次の短歌を思い出します。

東の野に炎の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ

短歌の作者は歌聖の「柿本人麻呂」です。奈良県宇陀に「万葉公園」があってその園内に詳しい解説と馬に乗った人麻呂像が立っています。先の短歌の言葉詞には「軽皇子」の伴をして阿騎野」で歌ったと説明されていますので騎乗の人物は「軽皇子」である事が伺われます。

宇陀の万葉公園に立つ「軽皇子」像。草壁皇子の子であった軽皇子が阿騎野の狩場に行った時の和歌でしょう。

一般にこの和歌は春の叙景歌と理解されていますが。歴史年表に置いてみると歌の真意が伝わって来ます。時の最高権力者は持統天皇で持統帝は後継者に天武帝との間に産んだ子「草壁皇子」の就任を望んでライバルと目された「志貴皇子」等を葬ります。そして愈々草壁皇子の天皇即位に直前に皇子は病死してしまいます。でも草壁皇子には軽皇子がいました。持統帝は天武帝の後継者に軽皇子の着任を期待してそのシナリオを書き「軽皇子」が文武帝として就任するまで指導します。文武は即位のとき15歳,藤原不比等の娘宮子を夫人(ぶにん),紀竈門娘(かまどのいらつめ),石川刀子娘を嬪(ひん)とし,宮子は首皇子(聖武天皇)を産みました。持統帝は聖武帝迄の天武天皇の血統の支配を導いたのでした。柿本人麻呂は宮廷歌人として天武帝から聖武帝迄従います。先の「東の野に炎の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ」の和歌は沈み行く月は草壁皇子であり昇り来る太陽は「軽皇子」であり。文武天皇の実現を予祝する和歌なのです。今持統天皇が建立した薬師寺では薬師三尊像の「花会式」が営まれています。薬師三尊は左右に「日光菩薩」「月光菩薩」を従えています。中央の薬師如来から見れば東(右)に「日光菩薩」左(西)に「月光菩薩)が位置します。中央の薬師如来は現世の「奈良朝廷」です。奈良朝廷は持統天皇を頂点にしています。柿本人麻呂は壮大な叙景歌でありながら奈良朝廷を賛美する歌を奉納したのです。

薬師寺花会式では里の人が椿の花を手作りして薬師如来に献花します。

中央の薬師如来から見れば左(東)が日光菩薩で右(西)が月光菩薩です。

中央が現在の奈良朝廷で西が既に亡くなった草壁親王で

東がこれから天皇位に就任する軽皇子(文武天皇)になります。

私が大学を卒業した頃梅原猛氏は「水底の歌」を上梓されました。私は瞬間「聞け!海神の声」かと思いましたが実際は大胆な柿本人麻呂処刑論でした。概略は人麻呂は大津皇子と同様に何らかの事件(例えば橘奈良麻呂事件や藤原仲麻呂事件)に連座して岩見国の粕淵に配流されて没したと推測します。根拠は晩年の歌が「水底」や「死に関する歌が多い事を上げています。

梅原猛氏は「隠された十字架/聖徳太子鎮魂説」や「水底の歌/人麻呂流刑説」等古代の大胆な推測で人々を魅了しまあした。

人麻呂が遺した文化は和歌でしたが、日本人には言霊信仰が連綿として続いて来ました。円空は江戸時代の仏師であると同時に歌人でした。屹度その脳には常時歌聖「人麻呂」が消えなかった事でしょう。飛騨の千光寺初め数体の「柿の元人麻呂」像が遺されています。

飛騨千光寺の円空作柿本人麻呂像

鎌倉彫の「後藤家」は運慶以来の仏像彫刻を寺院の荘厳具や家庭用の盆皿等の生活用具に活かした匠の家で八幡宮前に「博古堂」を出店して「後藤会/鎌倉彫道場」を営んでいます。その博古堂のショーウィンドーに「柿本人麻呂像」が展示されています。西日が当たるので状態は悪いのですが円空作の人麻呂像に酷似しています。

鎌倉八幡宮前にある鎌倉彫の「博古堂」この裏手が鎌倉彫の道場です。運慶以来の仏師の後藤家の本拠です。

「後藤会」のショーケースに納まっている後藤家の「柿本人麻呂」像

「詩聖」と云えば「白楽天」で「歌聖」と云えば「柿本人麻呂」です。何方も仙人の様な衣装を着ています。道教の影響でしょうか?詞には「霊」が籠るそんな信仰が百人一首を生み庶民まで浸透して「お正月のカルタ遊びに発展しました。定家が選んだ「小倉百人一首」は日本人の伝統や文化を形成してきました。私が柿本人麻呂の代表歌と思っているのは先の「東の野に炎の立つ見えて・・・」の歌ですが、定家は次を選びました。

足曳きの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む

定家は小倉百人一首に「山鳥の和歌」を選びました。

歌の概略の意味は次の通リでしょう。山鳥の尾の、長く長く垂れ下がった尾っぽのように長い夜を(想い人にも逢えないで)独りさびしく寝ることだろうか。歌った場所は岩見国で梅原猛氏の推論に拠れば何らかの事件に連座して岩見国に配流されて歌った和歌と云う事になります。柿本人麻呂を祀った神社は奈良を初め全国に祀られています。和歌が全国に渡っているのですから歌聖人麻呂は全国各地に分祀されているのです。でも全国の「柿本人麻呂」神社の総本社は島根県益田市に在ります。人麻呂が配流されて没したのが益田市(古代の岩見国)だからでしょう。

日本文化のベースが和歌ですから歌聖柿本人麻呂は全国に祀られています。

でも総本社は人麻呂が没した岩見国でした。

「歌会始」や「震災万葉集」に観る様に和歌は日本人の各層に浸透しています。和歌によって人々は震災から立ち上がり隣人や時には故人と想いを共有しながら前向きに逞しく生きて来ました。時空を超えて民族の心を伝えるのは和歌です。和歌は大和言葉が5音7音で出来て居る事から「日本民俗」の通奏文化になったモノです。

定家が百人一首を選んだモノの江戸時代大牟田にカルタが伝わった事から、

カルタ遊びが正月の年中行事(遊び)になりました。

九州の大牟田市にカルタ博物館があります。南蛮人が遣って来て宣教の合間にトランプで遊んでいるのを観て日本人が百人一首や花札遊びを考案したのでしょう。百人一首遊びは大人にも子供にも広がりましたし、花札は「任天堂」を生みました。「和魂洋才」は明治維新で学ぶ「歴史用語」ですが、ベースに在ったモノは日本民俗の言霊信仰でした。       【了】