今週の木曜日は「節分」です。昨日は各地で「鬼は外!」豆まきが行われました。鬼は目に見える「異形の怪物」で災厄を齎す恐怖の根源でした。一方目に見えない災厄を齎す根源を「物の怪」と呼びました。平安時代には沢山の物の怪が出現、多くの物の怪は目には見えませんでしたが、羅生門や大江山等寂しい場所に隠れていて人間に悪さをしまあした。目に見える異形の怪物は源頼光等の英雄が退治しましたが、目に見えない異形の怪物(妖怪)は陰陽師や僧が調伏しました。昨年は「鬼滅の刃」が人気になりました。世界中で特に東アジアで興行収入を稼いだ時日は人間は「物の怪」を好んでいる証左でしょう。一昔前には女学生に「トイレの花子さん」が流行りました。

昭和30年代の手塚治虫氏の名作「ドロロ」は異形の人が「物の怪」を退治しながら人間の肉体を回復する物語でした。

「鬼滅の刃」は手塚治虫氏の「ドロロ」の令和版の様でした異形の百鬼丸の弟子が「どろろ」で妖怪を退治する度に失った肉体を回復して人間に戻る話しでした。民に災いする妖怪(夫々根拠が在って仕方なく妖怪になっている)を退治して全国を回ります。百の妖怪の苦しみを解放します。そして百鬼丸とドロロは完全な体を回復します。

昨年膨大な興行収入を稼いだ「鬼滅の刃」

20年ほど昔女学生の間で流行った「学校のトイレの花子さん」

「物の怪」を検索すると次の通リ解説しています。

物の怪(もののけ)は、古典や民間信仰で人間に憑いて人間を苦しめたり病気にさせたり、時には死に至らしめるする。「死霊」「怨霊」「生霊」の事で変化する。医療知識が未発達だった時代には、人間の病気の原因が死者の悪霊であったり反対勢力の生霊と考えたのでしょう。物の怪を調伏させる為に、僧侶や修験者が加持祈祷を行うことがよく行われていました。病気の原因とされる「物の怪」の災厄を躱す為に「身代わり」を用意します。身代わり」「生贄(いけにえ)」は日本だけではありません。聖書には「スケープゴート/生贄の山羊」が贖罪とされます。目には見えない「物の怪」を恐怖する精神は古今東西共通するようです。我が国は水害洪水が多発します。治水工事には先ずは築堤工事が重要です。全国各地に「人身御供」の碑が残っています。有名なのは埼玉県幸手市にある「権現堂堤の人身御供碑です。築堤工事で苦慮していた幸手の農民が通リかかった巡礼の母娘を人身御供にして築堤工事を完了したのでした。愛知県の「木曽三川」にも人身御供の遺跡が在ります。

幸手市にある権現堂堤は荒川の築堤です。今は春は桜秋は彼岸花の名所です。

権現堂堤に祀られている「人身御供」の碑

10年も前スマホで妖怪遊びゲームが流行った事が在りました。京都の東寺の境内で「盆踊り」を観たのでしたが流石東寺で観光課課長職の僧が挨拶にして「無断で東寺の境内に妖怪を設定されてしまった。今日は盆踊り妖怪探しは迷惑にならない範囲で実施して下さい」言っていました。日本中の物の怪の出そうな寂しい場所が「パワースポット」とされ人が集まりました。

妖怪も「ポケモン」となって若い人の遊び相手になっています。発想の原点は「怖いモノ見たさです。

考えてみれば「遮光器土偶」も」「縄文ビーナス」も妖怪の様なモノです。

亀ヶ岡遺跡で発掘された遮光器土偶は人間の幸福を祈願した偶物だったのでしょう、だから可愛いのです。

「怖いモノを恐怖する気持ちと安産豊穣を願う気持ちはたいして違いません。「福神」と「悪神」の違いで目に見えないモノを畏怖すれば、対象は鬼になります。目に見えないモノに祈願すれば対象は福神になります。「鬼は外!」叫べば鬼は家に入れません。「福は内!」と叫べば「福の神は床の間に座ります。ポケモンはオセロの駒の様なモノで裏(黒)は疫病でも表は福神です。菅原道真も相良親王も最初は悪霊でしたが人々が祀る事で福神になりました。

平安京遷都に際して早良親王は悪霊になって都人を恐怖させました。

平安時代中期醍醐天皇の時代菅原道真の霊は天災を引き起こして都人を恐怖さえましたが、祀られて福神になりました。

「目に見えない因果を起こすモノは因果の結果が福であれば福神であります。因果の結果が「苦」であれば「鬼」であります。今次のコロナ禍もコロナウィールスで死んでしまえば「悪霊」です。でもコロナ禍を社会全体で克服した結果「社会」が良い方に変わっていればコロナは「福神」と云う事になります。畢竟人間は幸福を求めているのですから、オセロの駒を「表/白幸福」になるようにしたいモノです。                   【了】