「川の土手に自生している「薄」が穂を伸ばして来ました。もうじき彼岸花も咲き出す事でしょう。妻が訊きます「今年のお月見は何日なの?」

境川の土手の薄も穂が伸びて来ました。

私は手製の陰暦カレンダーで確認します。9月は9月2日(水)が月齢14で満月でした。もう、9月の満月は無いのです。次の満月は10月1日木/月齢15)です。従って10月1日に「お月見」をするのが妥当でしょう。お月見と云えば「カグヤ姫」を思い出します。竹取物語は源氏物語の作者紫式部も影響を受けた平安王朝文学の草分けです。

お月見の季節です。

横浜の和菓子老舗「濵兎」は稼ぎ時です。

「どうせ月に帰るのが定めならお騒がせに地上に降りなければいいモノを!」想うのは現代人だけで紫式部初め王朝の宮廷女官は強い影響を受けて「源氏物語」や「狭衣物語」を執筆して読んだのです。私達は「竹取翁」や5人の貴公子(カグヤ姫に求愛したが、大恥をかいて死んだり風評を失う)が誰で在ったか既知だったのでしょう。そして作者も判っていたのでしょう。王朝女官の間では常識だったので、竹取翁は誰だか燕の糞を掴んで病気になって死んだ大恥貴公子はだれなのか日記にも何にも書き残さなかったのでしょう。でも現代は凡そ検討は付きます。「カグヤ姫」とは「輝くばかりに美しい姫で」「香具山の麓」で産まれた姫なのでしょう。そして「竹取翁」とは香具山の麓の竹細工を生業にしていたお爺さんなのでしょう。

翁は竹林で輝く節を見つけます。竹を伐ると姫を見つけました。

姫の成長は早く育つにつれてその美しさは国中の噂になりました。

次から次に貴公子が求愛死に来ます。

処で子供心にも不思議に思う事があります。かぐや姫の意地悪です。5人もの貴公子に求愛されながら「無理難題」を注文し、貴公子は姫の関心を得たいばかりに財産も風評も失い落命さえしてしまうのです「美しい女性は心は醜い」想わせてしまいます。

絵巻の左石上中納言は燕の巣欲しさに大炊寮の屋根に上って燕の巣を取ろうとします。

「石上中納言」は姫に「燕の巣」を所望されます。「何故そんなものが欲しいの?」尋ねれば「子安貝」が欲しい」と云われます。「貴方の子が欲しい」とでも聞き間違えたのか中納言は必死になって燕の巣を探し回ります。大炊寮の屋根に燕の巣が沢山在る事を知らせれます。中納言は「梯子」をかかけて屋根に上って燕の巣の糞を掴みその途端に地上に落下して死んでしまいました。この大恥貴公子は誰なのか?現代人は推測します。私はこの中納言は「藤原不比等」だと思うのです。不比等は藤原氏隆盛の勢いをつけた人物でありますが総じて風評はイマイチなのです。「ライバルの橘諸兄を追い落とし橘氏一族は「橘奈良麻呂の乱」を契機に滅亡してしまいます。その後も「紀長谷雄菅原道真」等藤原氏に追い落とされ恨みに思ったと思われる人が数多くいます。

 

藤原不比等像画像出典(ウィキペディア)

不比等の正妻橘美千代の念持仏(法隆寺金堂阿弥陀三尊)

「紀氏」や「菅原氏」等は藤原氏の中興の人物藤原不比等の失態や不幸は「蜜の味」だったのでしょう。藤原不比等が特別に公色だったという記述は在りませんが彼は橘諸兄の正妻(橘美千代)を娶っているのです。美千代は光明子の母であり軽皇子(後の聖武天皇)の乳母でしたから、藤原氏が天皇家の外戚になり実権を握って行く先鞭になったのでした。そんな事から「竹取翁」は橘氏の末裔で藤原京の近隣で竹細工を生業にしていた人で物語に整理したのは「紀貫之/古今集のマナ序の作者」と考えるのです。

歴史は「勝者の記録」と云われます。でも昨今は敗者の視点も重要視される様になりました。現に私達は「明智光秀」は「裏切者」と評され、最悪と教わって来ました。でもNHKは光成も光秀の「大儀」や「愛妻」の「理」を見つめなおし、敗者の「理」や「情」にも評価し始めました。明らかに藤原不比等は勝者で紀氏一族も橘一族も藤原氏一族に追い落とされました。でも庶民や王朝女官は実態を知っていて敗者への敬愛が濃かったと思うのです。

月には兎が住むと云われます。兎は帝釈天のお土産に自らの命を絶って肉を届けたと言います。真の情愛を伝える動物です。「かぐや姫」の故郷に相応しい衛星です。    【了】