鎌原観音堂に行く道に「郷倉」の看板案内が出ていました。今までも旅行に行く度に郷倉を観て来ました。京都の樫原には今は歯医者の建物が郷倉の案内が出ていました。「郷倉」というと江戸時代「凶作→飢饉」に備えて農民が備蓄したお米の倉庫と説明される事が多い様です。でも、京都府下樫原の郷倉の案内には「大宝律令(702)に定められた制度で税金として米(祖)を納付する上に種籾や飢饉対策として農民が納めさせられた準年貢であった」されていました。問題は蔵の管理者でしょう。管理者が朝廷(国府)であれば蔵の名前は「正倉」で農民であれば「郷蔵」になります。京都府下樫原の郷倉は写真の通リ土蔵造りで屋根は瓦の耐火建築です。瓦は高価ですから農民が建てるには荷が重かったでしょう。で農村に遺されている郷倉は大半が木造で、耐火建築ではありません。中山道「茂田井宿」にも郷倉が残されています。

京都府下樫原に遺されている郷倉所有者は右隣の歯医者でその祖先が村長だったのでしょう。江戸時代の土蔵造りで瓦屋根です。

一方此方は福島県川内村の残る「郷倉」です。此方は栗の木の木造倉庫ですが屋根は瓦葺きです。

此れは美しい中山道茂田井宿です(建物は牧水が逗留した大沢酒造)此処にも郷倉が残っています。

古代、「正蔵」とは国税であった米(祖)を納める倉庫です。朝廷は飢饉対策として「義倉」も整備しました。飢饉対策や種籾倉庫として有力者に命じて税の他に米を納入させ義倉に納めさせました。そんな義倉が農民の自治意識が昂じると農民が自主的に米を飢饉対策や種籾として備蓄したのでした。そんな備蓄米を納めた倉庫が「郷倉」でした。「己の故郷の倉庫の意味で郷倉の名が付いたのでしょう。

名主が小作人に年貢の納入を督促します。小作人はアレコレ事情を話して年貢の軽減を願います。名主は聞く耳を持ちません。名主とて納められた年貢の過半を領主に納めなくてはならないからです。時に小作人は団結して力で名主に対して「年貢軽減」を強訴しまあす。強訴を聞き入れられないと思うと一揆をしたり逃散(夜逃げ)を匂わせて名主を揺さぶります。そんな小作人のリーダーは「義民」と呼ばれて村民の尊崇を集めます。中山道には「義民の碑」が数多く残されています。「ソロソロ年貢の納め時」という言葉は独身貴族が親の願いを聞き入れて「お見合いをして所帯を持つ時」に呟く常套句です。

此れは上田市青木村の義民の墓です。青木村の図書館には義民博物館が併設されていて毎年「義民太鼓」が催されます。

鎌原神社の鳥居の東側に壁が落ちて荒壁が曝された郷倉が在りました。吾妻村重要文化財の指定がされ村の建てた案内板が在りまあした・案内に依れば「鎌原村郷倉は永年貯蔵に耐える稗(ひえ)を射強制的に積み込んだ備荒貯穀されてきた村内唯一の郷倉です。天明8年(1787年)に建てられました間口は2間奥行は1.5間(4m×3m)で郷倉としては比較的小さく外観は防火性断熱性に優れた土蔵で。材木は手斧で製材された松材で壁隅で互いに「井の字型に組み込んだ「井籠蔵/せいろうくら」です。」デモ屋根は茅葺きですから瓦に比べれば耐火性に劣ります。萱葺き屋根は蔵の手入れが悪いので腐食が進んでしまい、トタン板で覆っています。壁も表壁は剥落してしまい荒壁が露出しています。応急処理するにしてもお金を要します。昔通リに修復したいモノの先立つお金が無いのでしょう。郷倉の「郷」は故郷の意味です。故郷愛を刺激しながら「素材費は官費で工賃はボランティアで」官民共同事業で修復するような手立てはないモノでしょうか?郷倉が農民の自治意識によって出来たモノだけに・・・・朽ち果てて行きのを見守るだけでは鎌原神社のご神体も許して下さらないでしょう。

南から鎌原神社を臨む鳥居の東に郷倉が建っています。覆いに雨除けされています。

社殿前から郷倉を見返す。右側のアパートは妻恋村で高原野菜栽培をしている人の住居でしょうか?

郷倉を観ながらアレコレ意見を述べ合う指さしているのは角の荒壁が落ちりそうな事を指摘しているのです。

社殿は赤いトタン板張で郷倉は青いトタンで覆っています。

如何にも無粋なトタンに代わって耐火断熱に優れて見栄えの良い屋根素材を開発出来ないモノでしょうか?

 

 

                                                             【了】