熊野那智大社はテレビや写真集で再三観ています。今回が最初の参詣なのですが、何時しか一度は来ている様な気持ちになっていました。写真集では必ず那智の滝と前方の三重塔(青岸渡寺)が写されています。那智の大滝がご神体なのだろう思って来ました。参詣してみて初めて理解しました。那智の滝は飛ぶ瀧神社(ひろうじんじゃ)のご神体であって、那智大社は那智の大滝を含めた那智の大自然がご神体で、主祭神は熊野本宮神社と同じ次の神々です。熊野本宮大社の神々は

第一殿:イザナミ命本地仏は千手観音・女形

第二殿:イザナギ命/本地仏は薬師如来/俗形。

第三殿:スサノウ命/本地仏は阿弥陀如来/法形

第四殿:天照大神/本地仏は十一面観音/十一面観音。

熊野権現と云えば熊野三山の祭神を呼び特に家津御子(けつみみこ/スサノウ)速玉(イザナギ)熊野権現とは熊野三山の祭神である神々をいい、特に主祭神である家津美御子(けつみみこ)(スサノオ)、速玉(イザナギ)、牟須美(ふすび/イザナギ)を指します。熊野三山は「熊野本宮大社」、「熊野速玉大社」「熊野那智大社」の三社から成り立ちますが。生い立ちも展開も夫々別個だったようです。熊野本宮は「崇神天皇」速玉は「景行天皇」那智大社は「考昭天皇」が開基しました。(根拠/熊野権現金剛蔵王殿造功日記)正史に神社名神名が記述されるのは大同元年(806年)で天平神護2年(766年)に4戸の神封を施入した、とされています。大和朝廷が4戸の公民を預けて神社の収入を保全したのでした。

伊邪那美神坐像・重要文化財/速玉大社/写真出典/東博/https://www.hakubutu.wakayama-c.ed.jp/kumano/midokoro/midokoro.htm

熊野速玉大神坐像/写真出典上記

家津御子大神坐像スサノウ/熊野速玉大社/写真出典上記

何時の旅行でも私達は旅先で古寺を巡って来ました。今回熊野の旅行では神社ばかりです。大樹が好きな友人はご機嫌ですし、もう一人の友人は毎日株価が上昇してきたのでこちらも「熊野の霊験だ!」と嬉々としています。那智熊野大社の鎮座する山が近くなってくると常緑樹の茂る山肌に点々と山桜が咲いています。美少女の顔に吹き出した「ニキビ」のようで、ようで、思わず笑ってしまいました。この様子なら、那智の大滝と前方に桜模様の三重塔の如何にも日本的な景色を堪能出来そうです。

新宮市内から国道42号線を那智大社に向かう。餅菓子の看板が既に那智大社が近い事を教えてくれました。

那智大社への上り道に差し掛かります。もうじき熊野古道の人気の「大門坂」になりそうです。

つずれ織の坂道のコーナーには山桜が満開でツイツイ前方不注意になってしまいそうです。

この先に大門があったので熊野古道「大門坂」に差し掛かるでしょう。

登坂の右(北)は深い谷間です。友人がタブレットで確認すると那智大滝の並びに「文覚の滝」があったそうです。平成123年9月の集中豪雨で分覚の滝は大岩が落下して土砂に埋もれて消えてしまったそうです。中世の怪僧文覚の史跡は逗子市にも鎌倉市内にも数多く残っています門覚が那智山中に逗留していたのでしょう。源平の争乱に際中に熊野を源平の何れかが味方に組み込めば勝利は判然としたのでしょう。怪僧文覚が活躍しそうな熊野山中です。

の岸渡寺(那智大社の神宮寺/江戸時代の管理手法)というよりは開山依頼熊野那智大社と不分離の関係であった、西国33観音の第一番)

の境内から西の熊野那智大社を観る

青岸渡寺の三重塔と那智の滝

青岸渡寺の三重塔は1972年(昭和47年)に再建されたもので鉄骨造りです。観光三重塔という事です。

長谷寺の三重塔は木造で昭和の名塔の誉れ高いのですが・・・・。

青岸渡寺海台から、谷合を流れる「那智川」を見渡す。文覚の滝焼失後砂防工事をしたようです。

「青岸渡寺」と熊野那智大社は隣接しています。青岸渡寺の本堂(重文)の横裏木戸を潜れば巨大な楠のご神木があって那智大社の神域です。青岸渡寺の本堂は素木が風雨に晒されて焦げ茶色ですが、熊野那智大社の神殿は何れも鮮やかな朱色で命を感じます。神仏の関係は仏教伝来時こそ競ったモノの、仏教は神道化して、神道も仏教の刺激を受けて変革しました。前述速玉大社の神像はその好例です。鎌倉時代一遍上人は自身が始めた「阿弥陀信仰の布教活動に自信を持てず熊野山中を彷徨してると、熊野権現に遭遇して激励されたと言い伝えられています。熊野は巨大な樹木が生い茂り、歩いているだけで脳が覚醒します。空気がきれいな事山中を歩く事で鼓動が激しくなり血流が増えるので脳が活発になるのでしょう。

国宝一遍上人絵伝の熊野で成道する場面大滝のオゾンや樹木の作る神域環境が一遍上人の成道を促したのでしょう。

手前が熊野那智大社の神殿この左に熊野三社の社が建っています。正面の巨木が楠の神木で洞が「胎内巡り」になっています。

熊野那智大社の楠の神木下の洞から入って上の窓から顔を出す事が出来ます。「胎内巡り」です。

那智大社から遠望する那智の滝手前の桜は青岸渡寺です。

此れで私達は「熊野奥の宮置玉神社」に始まり「熊野本宮大社」「熊野那智大社」を詣でました。新宮市内の「神倉神社」でこそ、身の危険を感じて石段の踊り場で参詣を断念してしまいましたが、石段に這い蹲って懸命に登ろうとしたお陰で少しだけ熊野詣での困難が解りましたし,今更ながら友人の有難味が解りました。脛に負った傷は未だ全治せずにいますが、風呂上りにワイフにペニシリンを塗って貰う度に熊野詣での尊さを想います。「後白河法皇」が「和泉式部」が「後醍醐天皇」が熊野に籠って活力を取り戻して運命を切り開いたのでした。夫々の人に共通するのは大自然に籠る神々に感応出来る、鋭敏な感覚(霊感)で諸々の神々を察知出来たのでしょう。    【了】