新林公園の古民家で七段飾りのお雛のお様を観ました。藤沢市では今年も市内2か所にお雛様を展示しスタンプを用意して「スタンプラリー」を実施しています。お正月の七福神スタンプラリーに参加すれば「七福神手拭い」を安く頒布して貰えます。そこで「お雛様スタンプラリーにも参加することにしました。3月1日、早速に「藤沢交流館」に行き、藤沢本町の旧家を巡る事にしました。処が2月29日の「新型コロナウx-ルス感染対策として安倍首相の「自粛発言」のに応じてスタンプラリーは中止されてしまいました。「お雛様を観ることは出来ても、スタンプラリーは止める」という事です。お隣の鎌倉市でも患者が出現して、高齢ご家族が重篤だという事ですから「お祭り気分は払拭して感染拡大を押し留める」のです。藤沢には「福田屋」と云う人形大手メーカーもありますし、旧家も多いので良いお雛様が埋もれています。そんなお雛様の虫干しとしても有意義な「お雛様スタンプラリーです。3月1日のコースは遊行寺門前の「藤沢交流館」からスタートして「福田屋」ランチは「「関次商店のパンの蔵「風土」で戴く事にしました。

遊行寺門前に在る藤沢交流館に展示された「吊るし雛」と「古布」で手作りされた上衣何方も少女の幸福を願う気持ちが注がれています。

お人形の「福田屋」のお雛様、福田屋の存在が藤沢皇大神宮の山車を実現させました。

これは鵠沼皇大神宮の山車です。藤沢の福田屋が山車のお人形を作りました。

パンの蔵は「小麦粉の蔵/国登録有形文化財」をパンの製造飲食に転用した施設です。ランチを終えたら白幡神社の門前の「種藤」でジャガイモの種イモを求めて最後は「蔵前ギャラリー」に行き最大の展示を観てバスで帰宅することにしました。

藤沢本町の「常光寺」の門前にある「ふうど」と云うパン屋さん。手前は国道1号線

「関次商店」は小麦の仕入れ販売を商って来た老舗でお寺の門前にあった倉庫をパン倉に転用したものです。

老舗の歴史的な倉庫で戴くパンは殊の外美味しいのです。

パンの蔵「ふうど」の入口

「ふうど」の店内蔵自体は国の登録有形文化財で荒壁の土の見える景色は美しく安堵感を誘ってくれます。

「ふうど」の奥には常光寺(浄土宗)が在りますし。奥の丘には弁慶塚も祀られています。1号線を挟んで北側には「義経の首塚」もありますから藤沢の歴史ウォーキングの中心に位置しています。私は四季折々の藤沢の催事に見物参加する度に「ふうど」のパンを楽しんでいます。上の写真の様に椅子席が多いのですが小上がりの畳席も二つ在ります私は古い木炭炬燵を転用したテーブルに座りました。すると背後に小さなお雛様が祀られていて「団地雛/昭和29年」と案内されていました。

「ふうど」に展示されていた団地雛飾り、木目込み人形ですが上品で温和な丸顔です。天上からも見える様に工夫されています。

団地雛飾りのアップ

「団地」とは日本住宅公団が1955年(昭和30年に)に都市労働者向けに開発した集合住宅です。洗濯機や冷蔵庫等の家庭電化品が普及して、斬新なライフスタイルを実現させる憧れの住宅でした。今では高齢化住居の諸課題を現出させている「高島平」や「多摩ニュータウン」に現出しました。お雛様は既に段飾りは見向かれませんでしたがコンパクトな木目込み人形にして狭い団地の居間や玄関に飾れるように工夫されていたのでした。「経済白書」で「最早戦後ではない」と云われたのは1956年(昭和31年でしたから、戦後日本の青年期でした。この団地雛は昭和29年でしたから、時代に先行していたことになります。ワイフに私が感情をこめて話しているとワイフは言います。

『私のお雛様は1947年(昭和22年)ですよ。私が産まれたので父が求めてきてくれたの!」「父は入れ物が無いのでガラスのケースを手造りして母は渋谷のデパートでお道具を揃えてくれたの!」言われてみれば寝室の窓際に今年も飾られていました。両親は更に時代を先行していたことになります。時代は移って流行は変遷しても娘の幸福を願う気持ちは不変だという事でしょう。

此れはワイフのお雛様で「団地雛」に先行するもの昭和22年です。木目込の丸顔です。

ガラスケースは父の手造りでお道具は母が時間をかけて買い揃えたそうです。

それにしても気になる事が一つます。端午の節句は国民の休日なのに桃の節句は休日ではないのです。それに「桃の節句」は童謡では「楽しい雛祭り」なのに「悲しいメロディー」なのです。忍従を虐げられてきた日本の女性の悲しみを象徴しているような気がします。

                                               【了】