この映画は、もはやフィクションではないのかもしれない。村田沙耶香さんの禁断の世界観をスクリーンに叩きつけた『消滅世界』は、常識を反転させ、愛の定義を問い直す、まさに究極の思考実験でした。

本作が描くのは、「究極の少子化対策」として社会システムが再構築された世界。結婚は人工授精で子をなすための契約に過ぎず、驚くべきことに夫婦間の性交渉は「近親相姦」として最も汚らわしい禁忌とされています。その一方で、家の外での自由な恋愛は完全に許可されているのです。この倒錯した秩序こそ、藤子・F・不二雄先生のSF短編を彷彿とさせる、身の毛もよだつ「狂った正常」でした。

そんな世界で、主人公は許されざる恋に落ちます。相手は、社会制度上は恋愛しても何の問題もないはずの「親友の夫」。しかし、その感情は単なる自由恋愛の枠に収まらない、抗いがたいものでした。「皮膚の中を好きになるのが恋」——その本能的な気づきは、制度化された恋愛観との間で彼女を激しく引き裂きます。あらゆる恋愛が許される世界で、たった一つの「本物」を感じてしまった皮肉。便利なシステムを手に入れれば入れるほど足りなくなる人間としての実感。私たちもまた、本当は僕らはもう失っているのかもしれないのです。

そして物語の後半、この世界の歪みがたどり着く究極の場所が、その姿を現します。
それが、政府が作り、そしてこの新しい価値観を信じる者たちが自ら望んで入るという「実験都市エデン」でした。

エデンは強制収容所ではなく、理想を信じる人々がたどり着く“聖域”です。建築家が語る「建物をデザインするって、世界を作ってるって感じ」という言葉は、まさにこの理想郷の創造を意味していました。

しかし、その聖域の光景は、私たちの想像を絶するものでした。
子どもたちは、そこにいる男女の区別なく、すべての大人に向かって「おかあさん!」と屈託なく呼びかけます。さらに、そこでは男性もまた、特別な処置によって「出産」するという、生物学の根底すら覆す現実が、理想の実現として受け入れられていたのです。

性別すらも解体され、誰もが「おかあさん」という機能になることを自ら望む世界。それは、人間が自ら進んで入る、完璧に管理された「マウスを入れる箱」そのものでした。まさに、楽園を追われたのではなく、自らすべてを差し出すことで完成した、倒錯の理想郷――「アダムとイブの逆」の物語が、そこにありました。

前半で描かれた倒錯した恋愛観、そして後半で明かされるエデンの真実。バラバラに見えた価値観が、「ここの世界は全て繋がってる」という恐ろしい線で結ばれた時、観客は言葉を失うでしょう。

この映画は、ディストピアは強制されるだけではない、と教えてくれます。私たちが自ら選び取ってしまう未来の恐怖を描いた、今年最大の問題作です。