二人分、生きている(山田) | 鎌倉投信 結いブログ

二人分、生きている(山田)

先ほど、36回目の誕生日になりました。


齢を重ねることの面白さとは、思考を重ねた分だけ

より深く、生きていること、いや生かされていることの不可思議さを実感することができ、日々このことだけで感謝、歓べてしまうところにあるのではないでしょうか。


今日は、息子と妻でバースデーケーキを創ってくれるそうです。

息子は、昨日からそれをすごーく、楽しみにしてくれています。

そんな息子を見て、私は幸せを感じます。


おそらく、こんな「あたりまえ」なことこそ「有難い」ことなのでしょう。



3月は私の誕生日と私の兄の命日が混在しています。

だからなのでしょうか。誕生日を迎えるたびに、「兄が生きていたら、○○歳。」とつい計算します。


兄が16歳(高1)で亡くなったのは、20数年前のことです。

9歳(小4)で悪性リンパ腫という小児ガンを患い、6年半の闘病の結果の死でした。



私が6歳(小2)の秋に、兄は突然「いなく」なりました。

診断の結果、家から遠く離れた大学病院での治療になったため、母も付き添うことになりました。


父、母、兄、私の一家4人のあたりまえな生活が突然、あたりまえでなくなってしまったときの衝撃は、30年以上経っても鮮明です。


この間、時折、祖父母が来て面倒を見てくれていましたが、結構、夜は一人でした。


自営業の父は兄の入院費用の捻出のために朝は6時に起きて、それから午前2時、3時まで工場の機械を動かしていました。


布団で寝るのが怖くて、電気コタツに潜りこんで橙色の光をずっと見ていた記憶があります。



6年半、兄は数ヶ月単位で入退院を繰り返しており

母はそれに付き添っていたので、家族が揃うというのはある意味で「非日常」でした。



長い入院生活の末、私が14歳(中2)の春、兄は突然、今度はこの世から「いなく」なりました。葬式には兄のクラスメイトや友人、校長先生をはじめ先生方がたくさん参列してくださいました。

一人の女子生徒が、尋常でないくらい泣き崩れていた姿が印象的でした。


私は、悲しみに暮れる、というか半狂乱のようになった母をなだめようと、気丈さを取り繕っていた気がします。

私自身、人知れず悲しみに暮れることもありましたが、それ以上に生きるということ、生命について考えるようになりました。



「兄は、何のために生まれてきたのだろう。」



スポーツが好きで、歴史が好きだった兄には、たくさんの夢がありました。

好きな人もいたと思います。


やりたい仕事に就いて、大好きな人と結婚し、子どもに恵まれて老いるという、生き物としてあたりまえのことが一切、できなかった。


それだけではなく、6年半という、兄の人生にとって3分の1以上の期間、抗がん剤の副作用で吐き続け、髪が抜け落ち、相当、苦しかったと思います。

兄にとっては、普通に生きることすら「あたりまえ」ではなかったのです。



「生き物だから、仕方ない。」



兄が亡くなった日、涙で目を滲ませながら、絞り出すように父が言いました。



私は、趣味というかその領域を超えて自然と「考える」という作業を日々し続けています。なぜ、ここまで深く思考する必要があるのか、自分でも良く分かりません。


ただ、現在の私の感性や思考に、この兄の死というのは甚大な影響を与えていると感じており、憐れんで欲しいという気持ちでは無く、このような記事を書きました。



何の因果か、たまさか生まれてきて生かされている私


そこには、特別な意味があるのか、ないのかは分かりません。


ただ、ひとつ強く思うのは、出逢えたご縁に感謝しつつ、より多くの人と、日々を歓び多く過ごしていくことが、生き物としての「あたりまえ」なのかも知れない、ということです。



常識にまったく囚われずに、事象の本質をしつこいほど追求する、私の日々の深い思考の作業というのは、まさに、このためにあるのかも知れません。