今日は久しぶりに湿度の下がって、カラッとした晴れ。終日洗濯物と格闘した。ついでに布団も干したが、やはりフワフワの布団は気持ち良い。
明日は波止場の会の主宰、川崎むつを先生の命日。例年諏訪神社山手の「文芸のこみち」のめおと碑(奥様の原三千代先生とお二人の歌を刻んでいる)で細やかな碑前祭を行う。
しかし、今年は肝心なYさんの態度が曖昧で、中止だ、いや開催だと情報が錯綜。編集長が所要で出られず会員さんが動揺したため、やむなく私の責任で行う決断をする。
さて開催するならば献詠をしなければならない。定形歌では泉下の先生に叱られるから、自由律にした。
川面には
白露の風も吹き
自転車をこぐ先生が見えます
先日のむつを賞にはこんな歌が求められたのだと思うが、私は敢えてここに出したかった。元来挽歌とはそういうもののはずだ。
実は「文芸のこみち」は生家の近くにある。東北本線跡地の遊歩道に、県内文芸関係者の文学碑を建立した。めおと碑はそのうち最後に建立された。
主宰は生前ここを通って我が家に「波止場」を届けに来て下さった。在りし日のお姿を偲んで詠んでみた。
短歌に関する考えも違い、直接の師弟関係はない私だが、主宰のことは一歌人として尊敬している。
夕方、ヤフオクで落札した「土岐善麿歌集」が届く。生前に発行された全ての歌集を集成、ご本人の署名もある貴重な一冊。
遺棄死体数百といひ数千といふいのちを二つ持ちしものなし(土岐善麿「六月」より)
亡き主宰は圧力に屈し文語定形に戻った土岐善麿(哀果)をあまりお好きでなかったように思うが、私は彼の生き方を尊敬している。
何故啄木が彼に全幅の信頼を置いたか、啄木没後詠んだ上記の歌で明らかなはずだ。戦時中の歌では、文明が伊藤千代子を詠んだ歌と並び、私が最も感銘を受けた歌であった。
私はコミュニストである以前にヒューマニスト、リベラリストでありたいと常々思っている。それが私の作歌のベースなのだ。
明日は波止場の会の主宰、川崎むつを先生の命日。例年諏訪神社山手の「文芸のこみち」のめおと碑(奥様の原三千代先生とお二人の歌を刻んでいる)で細やかな碑前祭を行う。
しかし、今年は肝心なYさんの態度が曖昧で、中止だ、いや開催だと情報が錯綜。編集長が所要で出られず会員さんが動揺したため、やむなく私の責任で行う決断をする。
さて開催するならば献詠をしなければならない。定形歌では泉下の先生に叱られるから、自由律にした。
川面には
白露の風も吹き
自転車をこぐ先生が見えます
先日のむつを賞にはこんな歌が求められたのだと思うが、私は敢えてここに出したかった。元来挽歌とはそういうもののはずだ。
実は「文芸のこみち」は生家の近くにある。東北本線跡地の遊歩道に、県内文芸関係者の文学碑を建立した。めおと碑はそのうち最後に建立された。
主宰は生前ここを通って我が家に「波止場」を届けに来て下さった。在りし日のお姿を偲んで詠んでみた。
短歌に関する考えも違い、直接の師弟関係はない私だが、主宰のことは一歌人として尊敬している。
夕方、ヤフオクで落札した「土岐善麿歌集」が届く。生前に発行された全ての歌集を集成、ご本人の署名もある貴重な一冊。
遺棄死体数百といひ数千といふいのちを二つ持ちしものなし(土岐善麿「六月」より)
亡き主宰は圧力に屈し文語定形に戻った土岐善麿(哀果)をあまりお好きでなかったように思うが、私は彼の生き方を尊敬している。
何故啄木が彼に全幅の信頼を置いたか、啄木没後詠んだ上記の歌で明らかなはずだ。戦時中の歌では、文明が伊藤千代子を詠んだ歌と並び、私が最も感銘を受けた歌であった。
私はコミュニストである以前にヒューマニスト、リベラリストでありたいと常々思っている。それが私の作歌のベースなのだ。