1979年ヨーコと共同戦線を張ったビートルズの版権奪回作戦は失敗に終わり、またもやポールとヨーコの仲は険悪になります。
翌80年1月のウイングス来日時にポールは大麻所持が発覚し、東京拘置所に10日間拘留、コンサートは行われないまま強制送還されました。同年12月8日にはジョン・レノンが暗殺されます。ポールの心痛はひどく、インタビューにも相槌程度であったため、でっち上げの記事を鵜呑みにしたヨーコの逆鱗に触れてしまいます。ヨーコに対する反論を行う気力もなくなったポールは、長期間自宅に引きこもる生活を余儀なくされてしまいます。
そして追い討ちをかけるようにウイングスの事実上の解散(デニー・レインの脱退)と、ポールは70年代末~80年代初頭、まさに踏んだり蹴ったりの期間を経験します。
この不遇な期間と前後して、ポールは10年ぶりにソロ名義で「マッカートニーⅡ」(1980)を製作しましたが、好セールスとは裏腹に、散漫な印象とデモテープの範囲を出ない作品内容は賛否両論でした。1978年製作し次作に用意していたウイングスの新譜「Hot Hits & Cold Cuts」も、ウイングス解散により棚上げ、結局一枚目の「ホット・ヒッツ」だけを「ウイングス・グレイテスト・ヒッツ」と改題して発表するに留まりました。ブートで目にする「ポール幻のアルバム」とは、この「コールド・カッツ」を指します。
そこでポールは「コールド・カッツ」の代わりに、全くの新譜を出すことに決め、そのプロデュースをビートルズ時代のプロデューサー、ジョージ・マーティンに依頼しました。セッションは1980年から開始され、出来上がったのが、「タッグ・オブ・ウォー」(1982)でした。

(曲目)
1. タッグ・オブ・ウォー
2. テイク・イット・アウェイ
3. サムボディ・フー・ケアーズ
4. ホワッツ・ザット・ユアー・ドゥーイン
5. ヒア・トゥデイ
6. ボールルーム・ダンシング
7. ザ・パウンド・イズ・シンキング
8. ワンダーラスト
9. ゲット・イット
10. ビー・ホワット・ユー・シー
11. ドレス・ミー・アップ・アズ・ア・ラバー
12. エボニー・アンド・アイボリー
リンゴや妻のリンダも参加してビートルズらしい作風(ポール自身は「ビートリー」と評した)への回帰を目指した80年の「タッグ・オブ・ウォー」のセッションですが、「白人と黒人の協調」というポールの理念の表明として、外部ゲストとしてモータウンから、スティービー・ワンダーとマイケル・ジャクソンを迎えました(これにはKKKなどのレイシストから、かなり強い抗議がありました)。
「タッグ・オブ・ウォー」は、スティービーとのデュエット「エボニー・アンド・アイボリー」が大ヒット。
また「テイク・イット・アウェイ」、
「ワンダーラスト」、
「ボールルーム・ダンシング」、
そして亡きジョンに捧げた「ヒア・トゥデイ」
という名曲が並び、ジョンの暗殺で沈滞していた音楽界にポールの健在ぶりをアピールすることに成功。全英・全米ともに1位を獲得し、80年代を代表する作品となりました。
比較的スムーズに行ったスティービー・ワンダーとの共同作業とは対象的に、「スリラー」の製作真っ最中だったマイケル・ジャクソンとの製作作業は難航しました。ポールもこの頃から映画「ヤァ!ブロードストリート」の準備に追われており、完成したのはスティービーに遅れること実に一年、ようやく「ザ・ガール・イズ・マイン」、「セイ・セイ・セイ」、「ザ・マン」の三曲が完成。
「ザ・ガール・イズ・マイン」をマイケルの「スリラー」(1983)へ収録し、「セイ・セイ・セイ」、「ザ・マン」の二曲は前回のセッションのアウトテイクと抱き合わせて「パイプス・オブ・ピース」として発表します。
シングル「セイ・セイ・セイ」、「ザ・ガール・イズ・マイン」の話題性もあり、マイケルのアルバム「スリラー」はギネス級のヒットを記録します。
しかし肝心の「パイプス・オブ・ピース」は、マイケルの音楽性とポールの音楽性の隔たりが大きく、アルバムのトータル性を欠く結果になり、当時の評論家からは散々酷評され、セールスは低迷しました。マイケルとは対象的に全英4位、全米15位とセールスは低迷。
しかも後になってマイケルに、世界遺産とも言えるビートルズの版権を買い占められてしまいました。
ポールは版権の奪回を図っていた矢先に、マイケルに横取りされたのです。ここでマイケルの本来の狙いが明らかになります。
まさに恩を仇で返されたというか、庇を貸して母屋を乗っ取られた形でした。
ビートルズ・ファンとして、死してなお、マイケルの行動は許せないものですが、彼を信頼し過ぎたポールの過失はあまりにも重大でした。
1983年ポールは、ビートルズ時代の「ホット・アズ・サン」騒動や、ジョンの「ロックンロール」(1975)のデモテープをフィル・スペクターが持ち逃げした事件を元に、映画「ヤァ!ブロードストリート」を完成。ジョージ・マーティンにサントラのプロデュースを依頼します(リンゴとジョージ・マーティンは映画にも出演)。リンゴもジョージ・マーティンも、「マジカル・ミステリー・ツアー」で懲りていましたから、当初はポールの脚本に反対しましたが、ポールは聞き入れることはなく、二人とも渋々出演を了承したのでした。
しかしあまりにも内輪ネタに走った映画は大コケ。サントラも新曲は「ひとりぼっちのロンリーナイト(バラード篇)」含め三曲だけで、あとは過去曲の再演ばかりとお粗末。ゲストはリンゴ、デイビッド・ギルモア(ピンク・フロイド)、ジョン・ポール・ジョーンズと豪華ではあったのですが…。この映画に当初から反対していた僚友ジョージ(当時映画会社も経営していた)は、「ポールのやつ、これでやっと目が覚めたんじゃねえのか」と一笑に付したそうです。これはビートルズ時代「マジカル・ミステリー・ツアー」で散々振り回されたジョージなりの深~い愛情表現ですね。
かつてグラミー賞受賞のインタビューで、「早く帰らないとフィルにオーケストラをダビングされちゃうよ」とまでフィル・スペクターを忌み嫌っていたポールでしたが、問題の「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」のセルフカバーはまるで安っぽいAOR。全世界から「これじゃフィル・スペクターを批判出来ないね」とツッコミすら入る始末。
まるでアルバムの体を成していないこのサントラ、当然チャートは振るわず(全英は辛うじて1位だが、全米は21位と史上最低)、ジョージ・マーティンとのコンビは三作で解消されました。
さて、実は私がリアルタイムでポールを聞き始めたのは、ちょうどこの頃からでした(ジョンはもっと前。最初はジョンの方が好きでした)。その意味でもこの三部作は思い入れの深いアルバムです。
27年経って冷静にこの三部作を聞き返してみると、確かに「ヤァ!ブロードストリート」は弁護のしようもない駄作ですが、巷で言われるほど「パイプス・オブ・ピース」の内容は悪くないのです。特に泣きのボーカルが際立つ「ソー・バッド」はやっぱり名曲です。
しかし、マイケルとはあまりにも合わなかったことも事実。「ザ・マン」はシングルB面曲とはいえ、全くの未完成で、アルバムの平均点を大きく下げてしまいます。せめてこの場所に「ザ・ガール・イズ・マイン」でも入っていたら、かなり印象が違うのでしょうが。
本来「タッグ・オブ・ウォー」は、「パイプス・オブ・ピース」と二枚組の予定だった訳ですが、スティービー・ワンダーの二曲とマイケルの二曲を外して、「ひとりぼっちのロンリーナイト」を入れた二枚組にすれば、「タッグ・オブ・ウォー」はポールの最高傑作になっていたかも知れません。
大雑把で詰めが甘い作風はポールの最大の弱点ですが、この三部作はジョージ・マーティンのプロデュースにより、楽曲の完成度は極めて高いだけに、尚更その感を強くします。
エリック・スチュワートと組んだ次作「プレス・トゥ・プレイ」(1986)が史上最低のセールスで(全英8位、全米30位)、すっかり「過去の人」扱いを受けてしまったポールを立ち直らせたのは、この間メディアでポールを舌鋒鋭く批判して来た、あのエルヴィス・コステロその人だったのでした。
(以下「フラワーズ・イン・ザ・ダート」篇に続きます)
※ちょうどこれを書いている時間に、「世界ふしぎ発見!」では、ビートルズの特番を放送中です。
翌80年1月のウイングス来日時にポールは大麻所持が発覚し、東京拘置所に10日間拘留、コンサートは行われないまま強制送還されました。同年12月8日にはジョン・レノンが暗殺されます。ポールの心痛はひどく、インタビューにも相槌程度であったため、でっち上げの記事を鵜呑みにしたヨーコの逆鱗に触れてしまいます。ヨーコに対する反論を行う気力もなくなったポールは、長期間自宅に引きこもる生活を余儀なくされてしまいます。
そして追い討ちをかけるようにウイングスの事実上の解散(デニー・レインの脱退)と、ポールは70年代末~80年代初頭、まさに踏んだり蹴ったりの期間を経験します。
この不遇な期間と前後して、ポールは10年ぶりにソロ名義で「マッカートニーⅡ」(1980)を製作しましたが、好セールスとは裏腹に、散漫な印象とデモテープの範囲を出ない作品内容は賛否両論でした。1978年製作し次作に用意していたウイングスの新譜「Hot Hits & Cold Cuts」も、ウイングス解散により棚上げ、結局一枚目の「ホット・ヒッツ」だけを「ウイングス・グレイテスト・ヒッツ」と改題して発表するに留まりました。ブートで目にする「ポール幻のアルバム」とは、この「コールド・カッツ」を指します。
そこでポールは「コールド・カッツ」の代わりに、全くの新譜を出すことに決め、そのプロデュースをビートルズ時代のプロデューサー、ジョージ・マーティンに依頼しました。セッションは1980年から開始され、出来上がったのが、「タッグ・オブ・ウォー」(1982)でした。

(曲目)
1. タッグ・オブ・ウォー
2. テイク・イット・アウェイ
3. サムボディ・フー・ケアーズ
4. ホワッツ・ザット・ユアー・ドゥーイン
5. ヒア・トゥデイ
6. ボールルーム・ダンシング
7. ザ・パウンド・イズ・シンキング
8. ワンダーラスト
9. ゲット・イット
10. ビー・ホワット・ユー・シー
11. ドレス・ミー・アップ・アズ・ア・ラバー
12. エボニー・アンド・アイボリー
リンゴや妻のリンダも参加してビートルズらしい作風(ポール自身は「ビートリー」と評した)への回帰を目指した80年の「タッグ・オブ・ウォー」のセッションですが、「白人と黒人の協調」というポールの理念の表明として、外部ゲストとしてモータウンから、スティービー・ワンダーとマイケル・ジャクソンを迎えました(これにはKKKなどのレイシストから、かなり強い抗議がありました)。
「タッグ・オブ・ウォー」は、スティービーとのデュエット「エボニー・アンド・アイボリー」が大ヒット。
また「テイク・イット・アウェイ」、
「ワンダーラスト」、
「ボールルーム・ダンシング」、
そして亡きジョンに捧げた「ヒア・トゥデイ」
という名曲が並び、ジョンの暗殺で沈滞していた音楽界にポールの健在ぶりをアピールすることに成功。全英・全米ともに1位を獲得し、80年代を代表する作品となりました。
比較的スムーズに行ったスティービー・ワンダーとの共同作業とは対象的に、「スリラー」の製作真っ最中だったマイケル・ジャクソンとの製作作業は難航しました。ポールもこの頃から映画「ヤァ!ブロードストリート」の準備に追われており、完成したのはスティービーに遅れること実に一年、ようやく「ザ・ガール・イズ・マイン」、「セイ・セイ・セイ」、「ザ・マン」の三曲が完成。
「ザ・ガール・イズ・マイン」をマイケルの「スリラー」(1983)へ収録し、「セイ・セイ・セイ」、「ザ・マン」の二曲は前回のセッションのアウトテイクと抱き合わせて「パイプス・オブ・ピース」として発表します。
シングル「セイ・セイ・セイ」、「ザ・ガール・イズ・マイン」の話題性もあり、マイケルのアルバム「スリラー」はギネス級のヒットを記録します。
しかし肝心の「パイプス・オブ・ピース」は、マイケルの音楽性とポールの音楽性の隔たりが大きく、アルバムのトータル性を欠く結果になり、当時の評論家からは散々酷評され、セールスは低迷しました。マイケルとは対象的に全英4位、全米15位とセールスは低迷。
しかも後になってマイケルに、世界遺産とも言えるビートルズの版権を買い占められてしまいました。
ポールは版権の奪回を図っていた矢先に、マイケルに横取りされたのです。ここでマイケルの本来の狙いが明らかになります。
まさに恩を仇で返されたというか、庇を貸して母屋を乗っ取られた形でした。
ビートルズ・ファンとして、死してなお、マイケルの行動は許せないものですが、彼を信頼し過ぎたポールの過失はあまりにも重大でした。
1983年ポールは、ビートルズ時代の「ホット・アズ・サン」騒動や、ジョンの「ロックンロール」(1975)のデモテープをフィル・スペクターが持ち逃げした事件を元に、映画「ヤァ!ブロードストリート」を完成。ジョージ・マーティンにサントラのプロデュースを依頼します(リンゴとジョージ・マーティンは映画にも出演)。リンゴもジョージ・マーティンも、「マジカル・ミステリー・ツアー」で懲りていましたから、当初はポールの脚本に反対しましたが、ポールは聞き入れることはなく、二人とも渋々出演を了承したのでした。
しかしあまりにも内輪ネタに走った映画は大コケ。サントラも新曲は「ひとりぼっちのロンリーナイト(バラード篇)」含め三曲だけで、あとは過去曲の再演ばかりとお粗末。ゲストはリンゴ、デイビッド・ギルモア(ピンク・フロイド)、ジョン・ポール・ジョーンズと豪華ではあったのですが…。この映画に当初から反対していた僚友ジョージ(当時映画会社も経営していた)は、「ポールのやつ、これでやっと目が覚めたんじゃねえのか」と一笑に付したそうです。これはビートルズ時代「マジカル・ミステリー・ツアー」で散々振り回されたジョージなりの深~い愛情表現ですね。
かつてグラミー賞受賞のインタビューで、「早く帰らないとフィルにオーケストラをダビングされちゃうよ」とまでフィル・スペクターを忌み嫌っていたポールでしたが、問題の「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」のセルフカバーはまるで安っぽいAOR。全世界から「これじゃフィル・スペクターを批判出来ないね」とツッコミすら入る始末。
まるでアルバムの体を成していないこのサントラ、当然チャートは振るわず(全英は辛うじて1位だが、全米は21位と史上最低)、ジョージ・マーティンとのコンビは三作で解消されました。
さて、実は私がリアルタイムでポールを聞き始めたのは、ちょうどこの頃からでした(ジョンはもっと前。最初はジョンの方が好きでした)。その意味でもこの三部作は思い入れの深いアルバムです。
27年経って冷静にこの三部作を聞き返してみると、確かに「ヤァ!ブロードストリート」は弁護のしようもない駄作ですが、巷で言われるほど「パイプス・オブ・ピース」の内容は悪くないのです。特に泣きのボーカルが際立つ「ソー・バッド」はやっぱり名曲です。
しかし、マイケルとはあまりにも合わなかったことも事実。「ザ・マン」はシングルB面曲とはいえ、全くの未完成で、アルバムの平均点を大きく下げてしまいます。せめてこの場所に「ザ・ガール・イズ・マイン」でも入っていたら、かなり印象が違うのでしょうが。
本来「タッグ・オブ・ウォー」は、「パイプス・オブ・ピース」と二枚組の予定だった訳ですが、スティービー・ワンダーの二曲とマイケルの二曲を外して、「ひとりぼっちのロンリーナイト」を入れた二枚組にすれば、「タッグ・オブ・ウォー」はポールの最高傑作になっていたかも知れません。
大雑把で詰めが甘い作風はポールの最大の弱点ですが、この三部作はジョージ・マーティンのプロデュースにより、楽曲の完成度は極めて高いだけに、尚更その感を強くします。
エリック・スチュワートと組んだ次作「プレス・トゥ・プレイ」(1986)が史上最低のセールスで(全英8位、全米30位)、すっかり「過去の人」扱いを受けてしまったポールを立ち直らせたのは、この間メディアでポールを舌鋒鋭く批判して来た、あのエルヴィス・コステロその人だったのでした。
(以下「フラワーズ・イン・ザ・ダート」篇に続きます)
※ちょうどこれを書いている時間に、「世界ふしぎ発見!」では、ビートルズの特番を放送中です。