ねぶたと将棋の好きだった父は、二年前の8月6日、83歳でこの世を去りました。
その日のことを、今でも鮮明に覚えています。
前年末に母が亡くなり気落ちしたのか、春から肺炎をこじらせて入院していた父は、何度も危篤状態になりながら、その都度強靭な生命力で危機を乗り越え、私を驚かせました。
「さすがシベリア帰還兵(銀杯所持者)は、鍛え方が違うね」
うつ病で入退院を繰り返していた私にとって、父の頑張りは私の社会復帰への大きな励ましでもありました。
一進一退の病状の中、小康状態が続いていた8月6日は、ちょうど父の誕生日でした。
35度を超える猛暑の中、自転車をこいでいつものように病院に向かい、私は父に「誕生日おめでとう」と言いました。
永らく意識混濁で、かつ脳梗塞の後遺症で失語症になっていた父は、かすかにうなずいただけでした。
私は昼過ぎに帰宅、病院から持ってきた洗濯物を洗って、ねぶた中継を見ながら一杯やっておりました。
夜9時ころでしょうか、病院から突然の電話。急変です。
ねぶた当日ですから、タクシーも確保できず、あわてて自転車で7キロ先の病院へ走りました。
着いた時にはもはや意識はなく、バイタルは完全に危険。主治医から詰所に呼ばれました。
「もう、強心剤も効果がありません。今度こそ覚悟を決めた方がいいようです」「はい・・・」
その後、父は二時間ばかり頑張り、静かに息を引き取りました。
「長い間、本当にありがとう」私はそう父につぶやき、先生に向き直って深く一礼しました。
自宅へ遺体を搬送する為の作業の間、私は病棟のデイルームで、父の大好きだった労働歌を泣きながら歌っていました。
「民衆の旗赤旗は 戦士の屍を包む
屍硬く凍てぬ間に 血潮は旗を染めぬ
高く立て赤旗を その下に死を誓う
卑怯者去らば去れ 我らは赤旗守る」(赤旗の歌)
※掲載許諾は得ています
朝方父の遺体と家に帰った時、すっかり途方に暮れたことを思い出します。
職場に父の死を告げるのがやっとでした。
朝、新聞の代配の手配がどうしてもつきませんでした。
でも、思い直したんですね。父を理由に仕事を休んだら、父はきっと悲しむと思う。
父は革命家の仕事に誇りを持っていたから。
私は父のなきがらを一人残して、仕事に出かけました。
急いで仕事を終え、帰宅した時の父の顔は、少し笑っているように思えました。
生きているうちに親孝行できずにすまなかったね。
やはり親というものは、死ぬ直前まで子どもに何か伝えたいものなのかな…。
だから、私はこの時期、とても切ない思いに駆られます。
今ごろ、仲間と再会できているだろうかな…。