島一体での移動、良かった♪♪♪

 

 心より愛と感謝をこめて

 

「きゅ~ぬふから舎」管理者・坂東瑠美さん

 今回ご紹介する方は、浜川豊吉さん(享年81)です。若いころは漁師として活躍した方でした。「最期は自宅の畳の上から旅立ちたい」という思いを、「きゅ~ぬふから舎」と病院などが島一丸となって実現させました。

 

 手足がしびれたり、細かい動きができなくなったりする難病「頸椎後縦靱帯骨化(けいついこうじゅうじんたいこっか)症」のほか、肺気腫糖尿病を患っていて、在宅医の訪問診療を受けていました。

 

 私たちは2008年から関わるようになりました。豊吉さんは話し好きの面白い方で、スタッフや在宅医に「(池間大橋がなかった)若いころ、宮古島まで泳いで渡って酒飲みに行ったよ」「漁師時代、イギリス船の大砲を引き揚げたよ」と武勇伝を語ってくれました。

 

 大阪に住む長女は「最期は家で死にたい」と願う父を看(み)るため、息子の大学進学を機に島に戻ることにしました。帰島してちょうど1年後の13年8月、豊吉さんは肺気腫が悪化し、沖縄県立宮古病院に入院。肺の水が取れたらすぐ在宅療養に戻るはずでしたが、約2週間後の夜、容体が急変したのです。

 

 妻や長女、親戚らが駆けつけ、一晩中付き添いました。呼吸の状態も悪化、血圧低下を繰り返し、「命の灯」が何度も消えそうになる中、私は長女から「『最期は自宅で』という父との約束を守るため帰って来たのに、どうしよう」と相談されました。病棟看護師長と主治医に相談すると同時に、在宅医にも現状を報告。厳しい状況での在宅移行を調整し始め、最終的に、病院側も了承してくれました。

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 そこからは、島一丸となっての在宅移行の開始です。朝一番に退院し家にたどり着けるよう、点滴や輸液ポンプなどはつけたままで移動することに。宮古島市社会福祉協議会は、豊吉さんを寝たまま移動させるための車を用意しました。池間大橋を越え、午前11時ごろ、無事池間島の自宅に戻ることができました。そこには在宅医が待っていて、酸素や機材の調整をしました。また、大量の酸素ボンベを宮古島の業者が集め、何度も交換してくれました。

 

 正午ごろ、意識が少し戻りました。長女は、豊吉さんが大好きなスイカをすりつぶし、食べさせました。「おいしい?」と聞くと、「うん」とかすかな声で答え、笑顔で涙を流しました。そして、日付が変わるとすぐ、旅立ちました。

 

 島の家に戻れただけでなく、意識が戻り、大好きなスイカを娘の手から食べ、家族と最後のひとときをもてた豊吉さん。自分の思いを遂げ、生き抜きました。「島のつながり」と「医療の支え」の両方があったから、だと思います。(構成・佐藤陽)=全7回

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 「きゅ~ぬふから舎」管理者・坂東瑠美さん 1979年東京都生まれ。沖縄県立看護大大学院修士課程修了。病院勤務後、南大東島などで保健師として活動。2013年池間島に移住、NPO法人いけま福祉支援センター勤務。

 (それぞれの最終楽章) 離島で学ぶ:3 めいが支えた

本日 朝日新聞 Beより