京都で起きた認知症の母親殺害事件から思うこと。 | 岐阜で働くサボリーマンのブログ

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認知症の母殺害に猶予判決 京都地裁 「介護の苦しみ」理解示す

介護疲れと生活の困窮から今年2月、合意の上で認知症の母親=当時(86)=を殺害したとして、承諾殺人などの罪に問われた長男の無職、片桐康晴被告(54)=京都市伏見区=に対する判決公判が21日、京都地裁で開かれた。東尾龍一裁判官は「結果は重大だが、被害者(母親)は決して恨みを抱いておらず、被告が幸せな人生を歩んでいけることを望んでいると推察される」として懲役2年6月、執行猶予3年(求刑・懲役3年)を言い渡した。
 判決によると、片桐被告は今年1月末、介護のために生活が困窮し心中を決意。2月1日早朝、伏見区の桂川河川敷で、合意を得た上で母親の首を絞めて殺害し、自分の首をナイフで切りつけ自殺を図った。
 論告や供述によると、片桐被告の母親は父親の死後の平成7年8月ごろに認知症の症状が出始め、昨年4月ごろに症状が悪化。夜に起き出す昼夜逆転の生活が始まった。
 同被告は休職し、介護と両立できる職を探したが見つからず、同年9月に退職。その後、失業保険で生活している際に、伏見区内の福祉事務所に生活保護について相談したが受給できないと誤解し、生活苦に追い込まれて心中を決意した。
 殺害場所となった桂川河川敷では、家に帰りたがる母親に「ここで終わりやで」と心中をほのめかし、「おまえと一緒やで」と答えた母親の首を絞め、自らもナイフで首を切り自殺を図った。前日の1月31日には、母親を車いすに乗せ、京都市街の思い出の地を歩く“最後の親孝行”をしたという。
 判決理由で東尾裁判官は「相手方の承諾があろうとも、尊い命を奪う行為は強い非難を免れない」としながらも、「昼夜被害者を介護していた被告人の苦しみ、悩み、絶望感は言葉では言い尽くせない」と、追いつめられた片桐被告の心理状態に理解を示した。
 また、判決文を読み終えたあと、片桐被告に「朝と夕、母を思いだし、自分をあやめず、母のためにも幸せに生きてください」と語りかけた。同被告は声を震わせながら「ありがとうございます」と頭を下げた。
     ◇
【視点】介護支える社会整備を
 認知症の母親を殺害した片桐康晴被告に、京都地裁は執行猶予付きの“温情判決”を下した。裁判をめぐっては、検察側も「哀切きわまる母への思い。同情の余地がある」と、最高刑懲役7年に対して求刑は懲役3年と、被告の情状面に理解を示していた。
 公判では、冒頭陳述や被告人質問で母子の強いきずなが浮かび上がり、聞き入る東尾龍一裁判官が目を赤くする場面すらあった。
 「生まれ変わっても、また母の子に生まれたい」と母親への強い愛情を吐露した片桐被告。公判では、介護のために仕事をやめざるを得なかった現実や、生活保護受給を相談した際に行政側の十分な説明がなく生じた誤解など、誰もがいつ陥ってもおかしくない介護をめぐる現実が浮き彫りになった。「人に迷惑をかけずに生きようと思った」という片桐被告の信条さえも“裏目”に出た。
 介護をめぐり経済的、精神的に追いつめられ殺人や心中に至る事件は後を絶たない。160万~170万人ともいわれる認知症患者は、約10年後には250万人にまで増加するとの推計もある。反対に少子化のため介護者の減少は必至で、介護をめぐる問題は極めて現代的な課題といえる。
 “母親思いの息子”が殺害を選んだ悲劇を繰り返さないために、法整備を含め、社会全体で介護を支える仕組みづくりが求められる。(京都総局 藤谷茂樹)
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【用語解説】承諾殺人
 加害者が被害者の承諾や同意を受けて殺人に至った場合に適用。殺人罪の量刑が死刑から3年以上までの懲役であるのに対し、承諾殺人罪は6月以上7年以下の懲役または禁固刑となっている。心中を図り、心中実行者が生き残ったケースに適用されることが多い。
(産経新聞) - 7月21日15時55分更新

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060721-00000019-san-soci






京都で起きた、貧困と認知症の母親の介護に疲れた男性が、母親を殺害した事件の判決が出ました。
僕はこの事件を新聞を読んで知りました。
事件の概要を示した新聞記事を読んで、悲しくて遣る瀬無く、目頭が熱くなりました。
孝行息子が愛する母親を自らの手で殺めなければいけなかったほど追い詰められていた。
母親も息子に殺されるのを抵抗せず、受け入れた。
被告は母親を殺めるときにどんなことを考えていたんだろうか。
母親と一緒に過ごした思い出か、母親に対する感謝と罪悪感か。
想像しようとしてもとても想像できません。


人が人を殺すことは勿論、絶対的な悪だと思います。(死刑執行や正当防衛等の特別な場合を除いて)
僕は死刑賛成論者で、人を殺めた人間は場合によっては死を以ってしてでも罪を償うべきであると思います。
「何故人を殺してはいけないのか」という議論をよく耳にしますが、僕はこの手の議論が嫌いです。
人を殺すことが悪いことには理屈なんかないと思います。


それだけにとても残念だと思います。
他に方法がなく、困り果てた末の悲劇。
もしも生活保護が支給されていたら、もしも他に介護をサポートする手立てが公にあったなら、もっと違った結果になっていたのではないかなぁと思います。


裁判では懲役2年6月、執行猶予3年の判決。
弁護人は勿論、被告を起訴する立場の検察官も被告に同情し、温情を含んだ求刑をした。
弁護人は「私よりもよっぽど人間的に優れている」と発言。
傍聴人は涙を流していて、裁判官も目頭を熱くしたという、法廷中が涙につつまれた裁判だったようです。
今日、ニュースで紹介されていた被告の証言には本当に泣かされました。


介護というのは本当に大変なものだと思います。
僕と同居している父方の祖父母はまだ元気なのですが、母方の実家には100歳を越える曽祖父が居りまして、介護が必要な状態。
母親の実家に行くと、介護は疲れるという話を聞きます。
曽祖父の息子夫婦、つまり僕の祖父母ですが、イライラして夫婦喧嘩するという光景も見ました。
この事件の被告もホントに大変だったんだろうなぁと思います。


こんな悲しい事件が、二度と起きて欲しくないと思います。
高齢化、所得格差の拡大、介護制度の不備が招いた悲しい事件だと思います。

貧困で且つ、高齢者を養わなければいけない。
介護制度も享受できない。
このまま少子高齢化、格差拡大が続けば今回のような出来事はまた起こると思います。

強いものが生き、弱いものは耐えていく、弱肉強食。
動物の社会としてはこれが当然でしょうが、人間の社会ではこれではいけない。
金のない者は死ね。これが健全な人間の社会ではないはずだと思います。





でも、現実は難しい。
今、僕は中国における貧困問題、経済格差問題を研究しています。
こういった問題を解決する方法を見つけるのは本当に難しいと思います。

結論としては国や行政が政策を改善する。
でもどうやって?
何処をどうすればいいのか。

社会保障制度を充実させる。
では、充実させるためのお金は何処から捻出すればよいのか。
貧困層が増大する中で、増税や保険料の値上げは出来るのだろうか。(日本の社会保険庁みたいなとろくさいことをしているようでは……)


何本か貧困や格差問題にかんする論文を読みましたが、いつ、誰が、何処で、何を、どうすべきかということを明確にした結論にはまだ出会えていません。


高齢化。
どうやって増加する高齢者を養っていくのか。
少子高齢の中では、これからドンドンたくさんの人が老いていき、それを僕ら若者が養わなければいけない。
養う方の人口はドンドン減っていく。
そこでどうすべきなのか。
人口を増やすためにはどうすればよいのか。
少子化と格差拡大は実はリンクしている部分がある。


介護制度。
発展途上の介護制度。
増える老人、少ない介護士。
介護の現場は激務で辛いということを聞きます。



こういったことを、これから考えていかねばなりませんね。
どうしたらいいんでしょうか。
結論はまだ遠いなぁと思います。






そしてこれらとは別に、今回の事件で個人的に、親孝行や介護する立場になったときのことについて凄く考えさせられました。
本当に親孝行をするってなんだろう。
自分が介護する立場になったらどうすればいいんだろう。
自分は何をすればいいんだろう。
僕は、被告の男性のように、孝行息子になりたい。(勿論、親を殺すことはしないですが)
事件をニュースや新聞で見聞きし、そんなことを色々と考えていました。

とりあえず、自分の出来ることから初めていくしかないですね。



今回の事件では下記のサイトで詳しく書かれています。
http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200606210076.html
http://www.janjan.jp/column/0607/0607080533/1.php

このような悲しい事件が起こったことを、より多くの人に詳しく知ってもらいたいと願います。