ポーランドの作家、スタニスワフ・レムの『ソラリスの陽のもとに』を、ロシア人監督アンドレイ・タルコフスキーが映画化した『惑星ソラリス』(どうでも良いけど、最近スティーブン・ソダーバーグがリメイクした『ソラリス』は最低でしたね)のサントラに使われている、バッハのコラール≪われ汝に呼ばわる、主イエス・キリストよ≫BWV639が好きで、その曲が入ったCDを買い漁った事があるのですが、同じ曲なのに演奏者毎にテンポや音色があまりにも違うので、結局オリジナルのサントラを買うことになりました。
少し前に徳永英明氏が火を点けた、カバーアルバムブームがありましたが、良く考えたらクラシックのCDの殆どは、『他人の作品を自分の感性で再構築した』カバーアルバムなわけですよね。何を隠そう私は徳永英明氏の大ファンで、なんとファンクラブの会員でもありますが、彼がカバーアルバムも第4段の『Vocalist4』を出すと聞いた時には、「とうとうこのおっさんも、守りに入っちまったか」と少々がっかりしました。それでもやっぱり買って、やっぱり聴いたら、やっぱり良かったです。(.....なんだそりゃ?!)
彼のカバーアルバムが素晴らしいのは、かつての名曲が1/fの揺らぎを持つと言われる彼の声で再現されるというだけではなく、それぞれの楽曲に対し、最大限の敬意と愛情を持ち、更に『自分はこのように表現したい』という明確な意図による表現があるからなわけで、当然上記のクラシックの多数のCDも、そのような敬意と表現意図があるからこそ、その存在価値があるわけなのです。
しかし世の中には、それらが全く感じられない音楽ジャンルがあります。
子供が『歌わされている』童謡がそれです。
同じ童謡でも安田祥子さん,由紀さおりさんが歌っているようなものは、良いんです。「あぁ、この歌って、こんなに良い歌だったんだ!!」と感動させてもらえるんです。
でも、子供が歌わされているものには、何もありません。その歌が描き出す世界はおろか、歌詞の意味すらも分からないで、大人達が求めるまま、楽譜通りに声を発しているだけの音楽から伝わって来るものは、子供を都合の良い型にはめ込もうとする大人のエゴだけです。
ごく稀に、通り掛かった幼稚園の運動会などで、そのような音楽を聴かされそうになると、私の不快指数はMaxまで上昇してしまいます。

