あの小さな、草ぶきの小屋へもどりたい
ハワイのケアラケクアにある
そこでカネやワヒネたちと一緒に過ごしたい
ずっと昔知っていたひとたちに
ギターの音色が聞こえる
ホナウナウの浜辺で
年老いたハワイアンたちの声が聞こえる
鉄の熱いうちにおいで
僕の船はもうすぐ出航する
コナへもどる
素晴らしい所なんだ
何処を見てもね
ぼくはただのローカルボーイ
ホームシックにかかったアイランドボーイなんだ
魚やポイを食べに戻りたい
あの小さな、草ぶきの小屋へもどりたい
ハワイのケアラケクアにある
フムフムヌクヌクアプアアアが泳いでいるところ
1933年、コナの独立記念日のお祝いのために、トミー・ハリソンとビル・コグスウェルによって書かれた曲である。
ハワイ島、ケアラケクア湾では毎年7月4日に、恒例のカヌーレースが行われていた。
この日、会場では聞きなれない歌詞の曲が観客の前で始まった。
泳ぐ魚や、二本指でポイを食べる真似をしながら、腰を振る笑顔のフラダンサーたちに、観客は拍手喝采を送った。
アンコールの声までかかったそうだ。
コグスウェルは1924年に「ニュージャージーのハッケンサックに帰って」と言う歌のパロディとしてこの歌詞を書いた。
作曲をしたハリソンは、彼はハパ・ハオレ・ミュージックの第一人者のジョン・ノーブルにこの曲を見せた。
ノーブルは元の曲とあまりにも似ているため、最初は出版を躊躇した。
ハリソンはその後も粘り、バラエティ誌の特派員、メイベル・トーマスの後押しでやっと彼の承諾を得た。
ジョン・ノーブルについて書いたポスト。
ノーブルはコグスウェルの歌詞にノスタルジックな魅力を感じ、「ハッケンサック」との違いを際立たせるため、言葉は変えず、メロディーを修正することにした。
ノーブルは何日もピアノに向かい、独創的でないフレースを削除、ヒット性のあるタッチを加えていった。
ある日、妻のエミリーに向かって微笑み、ノーブルは言った。
「ハニー、終わったよ。いいじゃ曲ないか?」
このメレはホノルル誌の「ハワイの最も偉大な50曲」に選ばれている。
「この軽快な小曲は本土からやって来る観光客の好みに合わせて、ハパ・ハオレのメレを作り出すノーブルの才能のあらわれであるが、同時に地元の人々にも受け入れられている。」
ノーブルはこの楽譜を「ケアラケクアの小さな草小屋」というタイトルで出版した。
彼によると、「最初に地元で売った2,000枚は飛ぶように売れた。私はさらに2,000枚を注文したが、それも数週間で売り切れた」。
本土の多くの音楽出版社からオファーがあったため、彼はサンフランシスコを拠点とするシャーマン、クレイ&カンパニーに出版権を譲渡し、ロイヤリティに対して500ドルの前金を受け取った。
ハワイの音楽ブームはハワイへの観光におおいに貢献した。
"My Little Grass Shack "のようなハパ・ハオレのソングヒットを通して、本土の人々は、草小屋、白い砂浜、美しいフラ・ガール、楽しく踊る人々という南の島のイメージを持った。
1936年にはパンナム航空がハワイに就航し、ハワイへのアクセスは簡単で速くなった。
ハワイ観光局は、さまざまな観光客向けフラ・ショーを企画したが、最も成功したのは1935年に始まったラジオ番組「ハワイ・コールズ」だったろう。
番組は、ワイキキ・ビーチにあるモアナ・ホテルの中庭から実況中継されていた。
人々は浜辺に打ち付ける波の音と、司会のウェイブリー・エドワーズの"The sound of the waves on the beach at Waikiki(ワイキキの海辺に打ち寄せる波の音)"という声をラジオを通して聴いた。
これを聴いて、どれほどの人々が、次の休暇をこの島で過ごしたいと望むようになったことだろうか。
因みに、フムフムヌクヌクアプアアアとは魚の名前で、ハワイ語に訳すと、「豚のように鳴く角張った魚」となる。
1984年のハワイ州議会で州魚として選出された。
2006年に実施された再投票においても圧倒的多数の票を獲得し、再度州魚に選出されたというハワイの人々に愛されている魚である。
ケアラケクアはビッグ・アイランドのサウス・コナにある街、ハワイ語で「神々の道」を意味する。
そして、ケアラケクア湾は、1778年、キャプテン・クックがリゾルーション号とディスカバリー号を率いてで来港、翌年の1779年に殺された場所でもある。
ホナウナウは古代ハワイ時代に敗残兵や、非戦闘員の避難所であった、ハワイ語で「逃れの地」プウホヌアと呼ばれるようになった。
♬ My Little Grass Shack - Hawaiian war Chant by Don Ho
Wikipedia - My Little Grass Shack in Kealakekua, Hawaii