美しく青々とした茂みに囲まれた私の愛する家
コオラウの霧に包まれてたたずむ
ふと見上げると
そこには虹がアーチを描く
私の家での暮らしは楽しいもの
そよ風を受けて美しく、穏やかで心地よい
その美しさを見る度、私は感謝し喜びに震える
明るく輝く数々のあかりのもとで
お話をくりかえそう
私の愛するコオラウの家のことを
ライアテア・ヘルムが美しいファルセット・ヴォイスで歌う、「愛する私の家」というこの曲を耳にされた人が多いと思う。
故郷の家の美しさを想って歌われるこのメレはビーナ・モスマンという女性によって書かれた。
彼女のたくさんの作品は、現在でも今でも人々に愛されている。
「ヘレ・アウ・イ・カレポニ(私はカリフォルニアへ行く)」、愛する人を連れ戻しにカリフォルニアまで行った男性の話、「ヘ・オノ (おいしい)」、おいしい魚を食べる喜びを歌った曲、「カ・プア・ウイ(かわいい花)」、自分の愛する孫娘のことを歌った曲などが有名である。
ビーナの書いた曲はシンプルで、楽しそうな雰囲気を歌ったものが多い。
しかし、この女性は音楽の世界で活躍しただけではなかった。
この並外れた進歩的な女性を紹介しよう。
1893年、彼女はドイツ系のサトウキビ労働者の移民家庭に生まれた。
1912年には港湾作業員であった、リチャード・ノーマン・モスマンと結婚し、男女4人の子供に恵まれている。
当時、ハワイでは音楽祭やグリー・クラブが盛んであった。
そして、彼女は1914年に、初めて、女性のみのグリー・クラブを作った。
ある日、リハーサルをする彼女たちの声を聴いて、馬車をとめた女性がいた。
ハワイ王朝最後の女王、リリウォカラニだった。
元女王は彼女たちを自宅のワシントン・プレイスに招き、正しいハワイ語の発音を教え、たくさんの古いハワイアン曲を教えてくれたのだ。
このグリー・クラブはその後28年間、活動をつづけ、スウェーデンの皇太子夫妻や、アメリカ大統領のフランクリン・ルーズベルト等の前で演奏をしたという。
リリウオカラニの逝去の際には、グリー・クラブは、遺体の公開安置と葬式の間のカヒリ(王族の象徴とされた、羽のついた棒)の運び手として選ばれた。
元女王の棺のそばに立ち、カヒリをゆらしながら、2時間の間、リリウォカラニの作った曲を歌い続けたそうだ。
1920年、米国憲法が第19回目の改正として、女性の参政権を認めた。
20代から、政治の世界にかかわってきたビーナは、第二次世界大戦時、バンドが解散した後、フルタイムでその仕事へと取り組んでいった。
ハワイの共和党で舞台裏の仕事を始めたのだ。
彼女は地方議会で働く初めての女性だった。
キャリアの最後には、ホノルルのハイ・シェリフ(州の執政長官、さまざまな行事を運営する無給の名誉職)に任命されている。
政治の世界での活動の間でも、彼女は音楽への世界から離れることはなかった。
戦後になると、カアフマヌ・コーラル・グループという、ハワイの女性だけのグループを結成し、世界を公演して回った。
王たちや女王の時代から、州議会へと移り行く時代を生き抜き活躍した女性、ビーナ・モスマン。
ハワイアン音楽の大黒柱の一人として、彼女のたぐいまれな人生と、豊かな音楽遺産はハワイの人々から高く評価されている。
♬ Ku'u Home Aloha by Raiatea Helm Harrison
参考資料
The 97th Kamehameha School Song Contest The Music of Bina Mossman
Hawaiian Music of Fame, Honorees Listing, Wikipedia