エ・クイニ・エ・カピオラニ | ハワイアン・メレの世界

ハワイアン・メレの世界

「メレ」とはハワイ語で歌、もしくは詩という意味。
フラを始めて、曲の内容をより知りたいと思い、書いています。

現代のハワイでは、カピオラニといえばダイヤモンドヘッドの麓にある公園、ワイキキのホテルの名前として、人々に知られている。 

カピオラニとは、1874年から1891年までハワイ王国を統治したデビッド・カラーカウア王の妃の名前だ。

 

ハワイの王族たちは大勢の家臣をつれて、島々を旅してまわった。

カピオラニ女王もしばしば王国中を旅して、民衆の状況を把握しようとした。

彼女は、国民の福祉は自分のクレアナ(責任)であると信じていた。

ハワイの人々の貧困と苦しみ、そして伝染病による人口の減少に対応するため、彼女はカピオラニ産院を設立した。 

現在はホノルルを代表する医療センター、「カピオラニ・メディカル・センター」として知られている。

 

この曲は、ハワイの人々から愛される、カピオラニ女王のニイハウ島への訪問を記念して作曲されたメレ・イノア(名前をほめたたえるメレ)である。

 

 女王、カピオラニよ

 あなたのために、燃えるような色の虹のアーチが空に描かれる

 

 カヒキから来た、この世の人とは思えぬ人を見よ

 クヘイラニは

聞いた

 

 虹にきらめく雨に招かれ

 ヒナの偉大なオオバンと共に

 

 彼女は島々をめぐり

 すばらしい場所を愛でた

 

 このお話を終わろう

 頂上におわすカピオラニについて

 

 カヘア

 カピオラニをほめたたえて

 

彼女は1834年12月31日、ビッグ・アイランドのヒロで、クヒオ・カラニアナオレ高官とカウアイのキノイキ・ケカウリケ高官の間に生まれた。

母は、カメハメハ大王に譲渡される前のカウアイ独立国の最後の王、カウムアリイ王の娘である。

8歳までヒロで過ごし、その後ハワイ島コナ地区で養育されることになった。

16歳の時には、オアフ島ホノルルに移り、カメハメハ3世の保護下に入った。

1852年3月7日、カピオラニはホノルルの貴族院議員である、ベネット・ナーマケハ大酋長と結婚した。

夫は当時、18歳であった彼女の30歳年長だった。 

1860年12月27日、病気がちだった夫は、彼女の懸命な看病にもかかわらず、ホノルルで息を引き取る。

 

カピオラニの祖父、カウムアリイ王のお話はこちらから。

 

 

 

その後、カピオラニはデビッド・カラーカウアと恋に落ちた。

彼らの結婚式は、カメハメハ四世の喪中であったため、1863年12月19日に英国国教会の牧師により密かに、そして静かに執り行われた。

彼女の人生はこの後、大きな波に翻弄されていくのだ。

 

カメハメハ五世が後継者を指名せずに亡くなった後、カラーカウアはカメハメハ四世の妻であるエマ女王と選挙で戦い、1874年2月12日、王位につき、カピオラニは女王になった。

1883年2月12日、カラーカウアとカピオラニは戴冠式を執り行った。

後日、行われたルアウ(宴会)では、毎夜フラが披露されたそうだ。

カラーカウア王が「メリー・モナーク(陽気な王様)」と呼ばれ、ハワイの文化・芸術を支えたと言われる理由のひとつはここにある。

 

夫が建てたイオラニ宮殿では、彼女は女王として社交界で重要な位置を占めていた。 

カラーカウア王やその兄弟姉妹たちと同様、彼女もまた才能ある詩人、ソングライターであり、ハワイ文化の大きなサポーターであった。

後に、カピオラニ女王はハワイ王国の終焉につながる、政変を生き抜かなければならなかった。

ハワイ王朝が崩壊していき、アメリカの併合にいたる政治的困難の間、カピオラニは威厳を失うことなく、政敵でさえも共感を覚えるほどであったという。 

1899年6月24日、彼女はこの世を去った。

彼女の遺品の中には、たくさんのメレを記録した多数の帳簿があった。 

彼女の甥であるジョナハ・カラニアナオレ王子が亡くなった後、これらの貴重な写本はビショップ・ミュージアムに移管され、 現在、同博物館で大切に保管されている。

 

♬ E Kuini E Kapi'olani

 
参考資料